ふたりの中に詩は落ちた。玲子は、その呟きが漏れ終わるまで、じっと目を瞑(つむ)って聞き入っていた。そこには邪な観念や醜悪な感情などきっと入り込める余地など無かっただろう。 玲子は、終わる間に復誦(ふくしょう)し始めた。「ポッカリ月が出ましたら、舟を浮べて出掛けましょう。波はヒタヒタ打つでしょう、風も少しはあるでしょう。・・・月が出ていないといけないわね。」そう、まるでその情景を準(なぞ)るかのよ...
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- 2006-05-29
- 『爛熟』不定期連載
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沖に出ていた。いや、そこは湖。静謐に月夜。まして十六夜(いざよい)。雨なら、小雨でも御免。少し肌、寒い?いや、暖かげ、翳ってはいまい、よそとふたりっきりの時間。煌く波間。そこには彼と彼女の影しか落ちぬ。なのに、だからこそ、詩人の心は激しく揺れていたことだろう。 詩人は、高坂と共に劇団員達の、いっときの小旅行に誘われた。五月晴れの突き抜けるかのような空、藍、群青。皆で、湖畔にて「手作りのご飯でも...
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- 2006-05-29
- 『爛熟』不定期連載
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(いまどき、あんな唄を・・・) たとえ街行く若者に、そんな呟きが洩れたとしても、詩人は遂に動かずじまいで居た。感に撃たれたといった装いも無く。あわや泣いてしまうほどの煽動もその心根には届かなかったかもしれず、だが、陽が必ず翳るように、彼の胸中には、この時、なにがしかの感光が射した。詩人はただ立ち止まって「我、そのものを知らず」といわぬばかりに先を急ごうとした高坂の足を留めさせた。「聞いてみようよ...
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- 2006-05-29
- 『爛熟』不定期連載
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詩人は再び、何物かを求めて流離(さすら)い行く。高坂から連絡が入った。彼は、世田谷は北沢に暮らしている。彼らは二十三の夏を迎えようとしていた。詩人は、寄宿舎をその八月(やつき)ほど前に辞していた、新聞奨学生としては折れた、寒村で焦れていた頃、高坂の「たまには、こっちに来いよ。」という電話越しの懐かしい声に反応、した。電車に揺られた先で、高坂は変わらぬ微笑を湛えた。高坂は、大学卒業後、正規の職に就...
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- 2006-05-19
- 『爛熟』不定期連載
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詩人は、古里へと還った。成人を向かえ、胃の腑に穴を開け、こじれて生まれ故郷で静養の日々。休学の身であったが、いよいよ体調がおもわしくなく、退学の憂き目に陥った。からん、としている旅立った時とおんなじ寒村の風景。そのさらさらと流れる風の間に間で、詩人は一人、ぽつんと(僕には東京の水は合わなかったのかもしれない。)などと、感傷ぶった想いに耽(ふけ)っていた。 既に、母はこの世に居ない。二人の姉はこの...
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- 2006-05-16
- 『爛熟』不定期連載
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男が、詩人に酒を教えた。まれに所長の目を盗んでは自室でひとり、買い込んだウイスキーの小瓶を開けてちびりちびりと、喉に流し込んでゆく。「呑んでなきぁ、気持ちが萎えてしまうんだ。」暗闇の最中、まるで男だけが浮き彫りになっているかのようなスタンドライトひとつっきりの自室で、彼は創作ノートに沸々と胸中極まる何事かを書き込んでいく。・・・極まる?。その両の目は落ち窪み、まだ十代という若さで有り得ざる風体、...
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- 2006-05-14
- 『爛熟』不定期連載
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僕は一時、酒に溺れた。在る先生から「酒はいけません。思考能力を減退させます。」と言われ「判ってますよ。」と管を巻き、それが元で疎遠にまでなったことも有り、「ああ、もういけない」としばし想うのだけれど、またつい喉が酒を欲、する。頑是無いことの繰り返し。内臓は手ひどくただれて生涯何度目かの長期入院生活を余儀なくされる羽目となってしまった、のでした。 病院のベッドにひがな一日横たえていると、空虚な気配...
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- 2006-05-13
- 『一人静』不定期連載
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僕は、恒にどこか先細りしてしまいそうな窮屈で真っ暗な洞窟を当ても無く彷徨うているかのような、そんな閉塞感に脅かされて生きてきた。生み出す言語は恒に陳腐に想えたし、これじゃあ駄目だ、と声を荒げ自身を鼓舞しても、また澱みない空気はどこからか忍んできて、それはまた屈託のない澱みだったから、僕は定めしそんなメランコリックな自分が厭になり、なんどこの世にバイ、しようとした、ことか。 真っ直ぐには歩んで来れ...
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- 2006-05-13
- 『一人静』不定期連載
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それから幾日も経たない日のこと、だった。彼女から連絡が有り、「明日にでも遇えない?」かと言う。僕はふたつ返事で了承、した。雑誌社の連載は終えたばかりだったし、何より長い連作にめどがつく思案は済んでいた。 何物も考慮の外、だったから、僕の心根は晴れていた。 病院へ赴くと父も存外、健啖そうだ。 僕は僕の指定した店に行く道すがら、随分今では遠い記憶の只中に在る、彼女との想い出をまさぐってはみた、だがど...
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- 2006-05-13
- 『一人静』不定期連載
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「いつかは遭うかもしれないと想っていました。」ちょっと彼女は眩しいものでも見るかのような眼差しで、この僕を従えている、ようだった。 僕は、閉口した。「う、うん・・・」普段の僕らしくも無く、どうしても伏し目がちになる。 漸く口に点いて出た言葉は「いつから、この土地に?」けれどもその問いは、後から考えればもっとも的を得た疑問のひとつ、だったと言えるだろう。彼女の二言、三言が直ぐに僕の脳を覚醒させた。...
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- 2006-05-13
- 『一人静』不定期連載
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それから何年の歳月が流れたことだろう。三十を過ぎ、下り坂、嗚呼、と溜息をつくまでもなく僕は気づけば、あの太宰が死んだ年になっていた。古里に居る。病いで倒れた父の介護の為に僕は東京での、言わば手づかずの仕事も放り投げて五年前に田舎に帰ってきた。古里は何も変わらない。幼き頃、駆け回った野や道もいまだにその地平には横たわっていた。変わったのは僕で、それはフゥーと吹きかければ直ぐに移ろいゆくであろう柔な...
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- 2006-05-13
- 『一人静』不定期連載
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僕は生まれつきの、胃腸障害に悩まされ続けていた。10代の時分から、けれどどこか大言壮語したり、唾吐き、激したことを言ったりするものだから、そういう感じにはとても想われがたかったけれど、痛みがひどくて何度かそれなりの日数、休むだとか、疼くまって一日中寝ているだとか、けっして身体の丈夫な方ではなかった。あの頃、僕は十二指腸潰瘍が穿孔し腹膜炎を併発、救急車で運ばれて緊急手術を施すほどの、入院騒ぎを演じて...
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- 2006-05-13
- 『一人静』不定期連載
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川端康成の名品に、『山の音』というのが、あるのです。先達て、僕はそれこそ山の音を聞いた。と言っても、心根に聞こえてきた、だとか、この心に響いてきたいにしえの音、だとかの所謂、思索的なことではなく、それこそ正真正銘、山の音を聞いたのです。 僕の大学時代、ふたつ上の先輩に東京は山の手育ちの壮麗な女性が居た。彼女はさる先輩が主宰していた文芸誌の投稿常連者で、堀辰雄の作をこよなく愛していると公言して憚ら...
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- 2006-05-13
- 『一人静』不定期連載
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糸田玲子様 ごめんなさい。貴女に僕は僕のこの想いをどうしても吐露しなければ、気が済まなくなってしまった。このままでは少し僕は苦しい。ぶしつけに、このようなお手紙をお送りする非礼をどうか、許してほしいのです。貴女は多分、驚くことでしょうね。或いは、そうと察していてくれたこと、なのかもしれませんね・・・・・・。ただ、これから綴る僕の想いは、けっしてよこしまなものなどではなく、僕の正直な貴女へ...
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- 2006-05-06
- 『爛熟』不定期連載
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『爛熟』第三章 風友仁『a mature 』/爛熟<RANJYUKU>・part3 an author;Tomohito Kaze 25 少女は気が遠くなるかのような白雪に覆われた田園の彼方を見つめながら、ひとり佇み、詩人を想っていた。その顔半分はマフラーに埋(うず)まっており、手袋で覆っておかなければかじかむように手先が痛い。両の瞳がきらきらと夕闇の斜光を受け、煌いている。見紛(みまが)うばかりの陽の輝きに、桜桃色にまるで火照ったかのよ...
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- 2006-05-02
- 『爛熟 第三章』
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高坂 は、その少年時、両親の離婚を経て父を選び上京してきた。その多くの青年、少女達がそう、であるように高坂もまた、その多くを語ろうとはしなかった。我私(がし)が強く、自尊心が凄まじい。けれどその鋭い眼光とは裏腹に笑うと相好、崩れ、愛嬌が見て取れ、そこが彼の好まざる異性との出遭いを呼びこむものらしく、高坂はいつしか心、砕く相手としか笑顔を見せぬようになっていた。例えば彼の文学に対する一言(いちげん...
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- 2006-05-01
- 『爛熟』不定期連載
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