高坂 は、その少年時、両親の離婚を経て父を選び上京してきた。その多くの青年、少女達がそう、であるように高坂もまた、その多くを語ろうとはしなかった。我私(がし)が強く、自尊心が凄まじい。けれどその鋭い眼光とは裏腹に笑うと相好、崩れ、愛嬌が見て取れ、そこが彼の好まざる異性との出遭いを呼びこむものらしく、高坂はいつしか心、砕く相手としか笑顔を見せぬようになっていた。例えば彼の文学に対する一言(いちげん)はどこか無碍・強弁・一刀両断を帯びていて、「世の中を巻き込んでいくような、或る導きを帯びた小説を編まなければ駄目だね。」「理想じゃあ無い。この数年で良いものを編めなければ、俺は俺のこれまでを全否定することになる。」「日本の文学は川端康成の自殺によって終わったね。暴論、じゃあない。その後(あと)のものは、ただたんに事象を並べているに過ぎないよ。」「文学に理屈は必要、だ。理論と置き換えてもいい。ひとつの或いは幾つかの理屈をもって小説は編む、ものさ。じゃないとただの物語になる。」あまりにも窮屈で、その言葉尻にはその生に対する、何か醜悪心みたいなものが息づいており、生き急ぐ文学青年にありがちな物言いを時に覗(のぞ)かせていた。毎朝、毎夕、チラシを織り込み、新聞を束ね、自転車の荷台に乗せあの路この路と駆けて行く。この繰り返しの合間に小説を書くという所作が待つ。大学にも向かわなければならない。「どこかそういう己の境遇に何がしかの気概を吹き込まなければ、ちゃんちゃら馬鹿らしくってやってられないだろう?。」だのに高坂は、どこか周囲が驚くほどの義侠心を秘めた男で、詩人が病(やまい)に臥(ふ)せり入院加療中の折りにはその都度、自身から発して詩人の受け持ち区域まで新聞を配ってくれたりもした。「しようがないよ。そういうときはお互い様さ。」そのような佇まいが、一年次から他者を圧していた、と言うべきか、瞬(またた)く間に上級生らからも一目置かれる存在となっていった。
或る日のこと、高坂は一冊の詩集をその傍らに携えてにやにやと悪戯(いたずら)っ子がいまにもその獲物を捕らえようかとするかのような微笑を湛えながら、詩人の部屋に入ってきた。詩人はその時その部屋を、まるでその物体ひとつっきりで凌駕してしまいかねないようなベッドの上で身体を横たえ気休めしており、高坂のなんとも測りかねるその微笑につい、釣られ笑いさえ起してしまった。「渋谷(しぶたに)。俺はおまえを見下げていたようだな。」高坂は、そう言ってゆっくりと一冊の書物を詩人の前に差し出した。その表紙には『美咲優治第一詩集』と在る。「今日、大学の図書館でこの本が俺を導いた。偶然とはあまりに言い難い。目に見えざる者がこの俺にこの本を読め、と呟いてきたんだよ。俺が図書館に入ると、この本の背表紙がきらきら眩(まばゆ)いくらいに光って見えた。読めば解る、開けば啓示がある、と言わんばかりにな。俺は取り出した。この詩集を。美咲優治第一詩集。中を開いて驚いた。俺は俺の間近(まじか)で知る男の顔をそこに見た。」高坂は、そんな寓話的な言い回しを演者たっぷりに一字一句、斬るように呟き、煙(けむ)に巻いた。「この半年、出遭ってからおまえ、ちっともこういうことを言わねえもんだから、参ったよ。この俺がおまえに息巻いた文学理論みたいなものは、まあ実は釈迦に説法、みたいなものだったんだろうな」「いや・・・そんなことはないよ。君には凄く教えられるものがあるよ。」「本当、かよ?、よく言うぜ。」「いや、本当さ。」
ここにも、またひとり。人間・渋谷優治がその十代で自身に目覚め、抉(えぐ)り、掘り起こそうと躍起になった、それは十代ながらも自身をしっかと活写しようと努めた、ものの成果。美咲優治という詩人に成り代わってからのその、詩の羅列に触れた、者。詩はひととひとを断絶させるものではなく、繋(つな)ぐもの。それらに触れた市井(しせい)の人々達。
「十七で、詩人としてデビュー。そうか、おまえは既に名の在る花だったのか・・・。」高坂は詩人が受け取った詩集を、まるで眩しいものでも見るかのような顔つきになって、さもさも感慨深そうにそう、告げた。「いや・・・名の在る花と言ってもたいしたものは書けちゃいないから。」「すかしてらあ」見上げてすぐ俯きがちに、呟いた詩人に梶はすかさず、そう返した。更に我関せずという風で「・・・面白くなってきた。こんな近くに名の在る花、がよ。この俺も負けちゃあいらねないね。おい、渋谷、こんな俺だがよ、今後もどうぞ、宜しくな。」高坂は屈託の無い笑いを見せながら、そう言って片方の手を詩人の前へ差し出した。「いや、こちらこそ・・・」詩人の手をしっかと握り返した高坂。(暖かい手、だな。)後々までも想い出すことになる、心地良い、その時の陰影。だが、高坂の、その世情を見やる己を見やる醜悪感が梶本人に焦りと倦怠を募らせ、そのことが原因となってよもや、あの事件を産もうとは、この時のふたりには察せられざることではあっただろう。
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- 2006-05-01
- 『爛熟』不定期連載
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