それから幾日も経たない日のこと、だった。彼女から連絡が有り、「明日にでも遇えない?」かと言う。僕はふたつ返事で了承、した。雑誌社の連載は終えたばかりだったし、何より長い連作にめどがつく思案は済んでいた。
何物も考慮の外、だったから、僕の心根は晴れていた。
病院へ赴くと父も存外、健啖そうだ。
僕は僕の指定した店に行く道すがら、随分今では遠い記憶の只中に在る、彼女との想い出をまさぐってはみた、だがどうしたものか物悲しい、あまり良い気分には浸れぬ想い出ばかりが記憶に負ぶさってきて、僕は少しばかり、自身の胸中を持て余した。「振り返らぬ方が身の為だ」僕はいつものように、そんな想いに支配されたときの自身の癒し方を実践しようと計った。さしずめ誰に褒められようも無い慰撫心、だろうけれど・・・・・・。
車を乗り付けた。ずんずん歩いて中へ入ると、奥の方から笑顔で手を振る女性が居る。彼女、だった。その脇には見慣れぬ中年配の男性がおり、なんだかかしこまって座っている。すぐ判然とした。彼女の夫、だろう?、その通りであった。「こちら、作家の辰巳さん、私の大学時代のお友達。これ、うちの旦那」彼女は、大きなジェスチャーで苦笑まじりに、そう言った。「やぁどうも、初めまして」僕は、いつものように頭を垂れた。「あっ初めましてぇ」弾かれたゴムのように半身を折る、旦那さん。随分、緊張なされているようだ。「いやぁ、家内から貴方のことを聞かされまして、私、もうびっくりしまして。もおお、是非是非お逢いしたいと想いまして。誠に失礼とは想いましたが」連れだって参ったと仰られる。そんな事を言われると、こちらの方が多大に緊張、する。
「いえ、私はしがないもの書きなので。」
「いやいや、ご謙遜を。私、実はこれでも貴方のデビューなさってからの、小説のタイトルリストを諳んじられるほどの、大ファンなのですよ」
・・・・・・・非常に困った。どこが「貴方みたいに面白いことひとつ言えないひとでね」なのだろう?、いやに流暢で、会話にそつが無い。その後は、こちらはただ聞き役に回って、旦那さんの快活な舌回りを、時にオーバーに肘で小突いていなしたり、或いは時に深く頷いたりしている、彼女の所作を微笑ましく想いながら僕は、じっと耳を傾けていた。
そうして旦那さんはいよいよそれがこのしばしの邂逅のクライマックスであるかのように、懐手にしていたカバンの中から一冊の書籍を取り出した。どうやら、学校の教科書である、らしかった。
「これは、今度、中学に上がった上の娘の国語の教科書なのですが、無論、ご存知ですよね?、貴方の小説が載っています。」
「いや、本当ですか?、ああ、全然知りませんでした」
「あら、そうなの?」
「いや、こういったことはね、ううーん、例えば大學入試の試験問題なんかと一緒で、大抵、事後承諾でね、この教科書の掲載はまだ聞いていないなぁ」
「あっ、そんなもんなんだ?」
「うん、そんなもんだよ」
さぞや驚いた風の旦那さんから引き取ってページを捲ると、確かに見覚えの有る文体が連なっている。因りによって僕の書いた物の中では失敗作と嘆いた、いわば自信喪失の作、である。そうして僕の預かり知らぬ(僕は写真嫌いだから、この世にそうそう無いはずなのに)肖像写真の添えられたプロフィール。これも年号が間違っていたり、ちょっと投げやりで作ったかのような、そう言っては製作者に失礼、だろうけれど無茶苦茶な体裁の教科書ではある。
そんなこととは露知らぬ旦那さんの独演ぶりに僕は彼女の立場を汲んで最後まで付き合った。別れ際、その教科書に一筆サインして、嬉々として引き上げる旦那さんの背を見送りつつ、僕は僕の嬌態になんだか哀れささえ感じていた。僕はやはり、ただの人であった。彼女との十数年振りの再会に何を期待していたのだろう。彼女は明らかに僕の入る余地さえ微塵も無い空間の只中に存している、ひとじゃないか。
自宅に戻ると、暗い部屋に明かりを灯した。そう、僕は、やはりいまだ世情のひと、であった。少々悲しかった。いや、どっと泪が出た。
四月も数えられぬほどの日数を経ているのに、桜冷え、いやつつじ冷えとも言うべきか、随分、寒さを感じる夜半だ。僕は、ストーブの遠赤を起こした。薬缶を置いた。暫くしてコトコトと湯が鳴った。
窓辺越しに星を見た。澄んでいた。辺りに灯かりは見えない。見えるのは満天の星空と、黒々と形だけを成す峰々、だけだ。その瞬間だった。
その瞬間、だった。僕には判然と聞こえた。
そう、それは確かに山の音だった。
山の音。僕はそうか、とそれこそ瞬時に有る事を察した。
いや、待てよ。そう、じゃない。
想い過ごし、だろうさ?(心根に聞こえてきた、だとか、この心に響いてきたいにしえの音、だとかの所謂、思索的なことではなく・・・・・・)。
僕がその時、瞬時に察した、有ることとは黄泉の国のあの方の、この言葉に拠るものなのです。「・・・・・・そうじゃないよ。」僕は、また泪に暮れてしまった、のでした。
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