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連載小説『爛熟』37

 詩人は再び、何物かを求めて流離(さすら)い行く。高坂から連絡が入った。彼は、世田谷は北沢に暮らしている。彼らは二十三の夏を迎えようとしていた。詩人は、寄宿舎をその八月(やつき)ほど前に辞していた、新聞奨学生としては折れた、寒村で焦れていた頃、高坂の「たまには、こっちに来いよ。」という電話越しの懐かしい声に反応、した。電車に揺られた先で、高坂は変わらぬ微笑を湛えた。高坂は、大学卒業後、正規の職に就かずフリーターとして寝食を立てていた。鉄筋にコンクリートを流し込む為の型枠大工としてのバイト。ものを書く、という行為において、彼に貴賎の職など無かった。その為に汗をかく。「そこになんの欺瞞があろう?ことか。」、清清しきほどに、そこに一片の曇りすら無い観念。いまだ、その書くという行為は、人生の消費、でしか無かったが高坂は、詩人に逢うなりエネルギッシュな顔を手向けた。反面、俯きがちにものを語る生来の、詩人の佇まいが酷く嵩じてしまっており、詩人は久々の語らいにおいても昂然と語る高坂に眩しいものさえ感じてしまっていた。(君は、いまだに苦悩の只中に居るのだね。なのに、そう、すっくと胸を揚げていられるのは何故だい?何故なんだい?。)そう想えただろう、か?そう、自身を挫いただろうか?
 京王線下北沢駅界隈の雑踏。それらがもう、そこまでとばかりに聞こえてきそうなほどの徒歩、三分。苔むすかのような濃緑の枝は茂っており、その合間に古ぼけたぼろアパート。よくぞこの場を見つけてきたものだ、とも想えしほどの至便地。キッチン、脱衣場まであって狭いながらも風呂場、部屋などふたつ。そこには無数の数え切れぬほどの書物群。彼は、詩人に高笑いしたあとで、こう、呟く。「まるで、新聞店の寮部屋と一緒、みたいなものだね?」相槌を打つ詩人。ただ違うのは、そこが飯を食らう場所であり、排泄を伴う居所であったという判り易い、違いだけだ。「ここで生産される行為はおんなじさ。」高坂は、にこやかげにそう、重ねて言った。
 連れだって街を歩む。高坂が文学と共に愛して止まぬ演劇という名の火灯り、そこかしこに見てとれる演芸場の点在がその存在をいやが応にも際立たせる。街行くひとは若いひと、ばかりであった。みな、何かを求めている?何かを信じている?何かに絶望してしまった?何かに躓(つまず)く?何かを飛び越える?何かを培う?何かに突っ伏した?何かを、何かを手中にする?、寒村には無い風景。ここでは往来の、その聞こえてきた声でさえ違う種族のように想えてしまう。
 高坂と詩人は、街頭の最中にそれを、見た。出逢った。十字路の片隅でアコースティックギターを奏でつつ歌う、一人の大男を。無精髭、長髪、くしゃくしゃのサマージャケット、穴だらけのジーパン、男は歌う。

  How does it feel
  How does it feel
  To be without a home
  Li ke a complete unknown
  Like a rolling stone ?

  どんな気持ちがするのかい?
  どんな気持ちがするのかい?
  住む家もなくなって、
  誰にも全く知られないままに、
  石ころみたいに、
  転がっていくというのは?

      Bob Dylan『Like a Rolling Stone』
        Bob Dylan bobdylan.com拠り。(訳・筆者)

連載小説『爛熟』36

 詩人は、古里へと還った。成人を向かえ、胃の腑に穴を開け、こじれて生まれ故郷で静養の日々。休学の身であったが、いよいよ体調がおもわしくなく、退学の憂き目に陥った。からん、としている旅立った時とおんなじ寒村の風景。そのさらさらと流れる風の間に間で、詩人は一人、ぽつんと(僕には東京の水は合わなかったのかもしれない。)などと、感傷ぶった想いに耽(ふけ)っていた。
 既に、母はこの世に居ない。二人の姉はこの地に居ない。実の父とふたりっきり。そのか弱さに焦れていたのか、父は大抵、食したあとは書斎に篭(こも)りっきりで、その息子とは会話らしき会話も終(つい)ぞ無かった。彼もまた、自室で一人、寝転んでそのときどき、思い思いの思索を引き起こす書物ばかりを読んで過した。後年、この父が脳内出血で倒れてしまうまで、詩人にはこの父との在る一定を伴った距離間こそにかえって自身に対する慰撫心が起こって、助けられた想いがした。隔絶、してはいまい、だが、針の先でちくりちくりと刺すかのような、詩人の脆弱さを突(つつ)く言葉の数々をこの頃、浴びせかけられようものなら、詩人はどうしていたろうか。寡黙な父が、詩人に安心感を植えつけた。どこまでも詩人は、安楽な男でもあった、ということか。
 日々、安寧。自室で、けれど何事か憂憤に耐える詩人を叱咤するかのように、村の青年団の者達が伺いに来る。ときに詩人は、その誘いに応じ、村の定例の寄り合いに出たりもした。ここでふたつ上で中学までは同校の者であった凛子に再び出くわすようになる。凛子は、既にその歳、妖しいほどの眼差しを投げかけてくる女で、けっして美人とはいい難いが男好きする顔立ちであり、村ではかなりもてると評判の女、ではあった。だが詩人には興味が起こらない。「誰とでも寝る」と良からぬ噂が後を絶たない凛子など、詩人の意識なぞ呼び覚まそうはずもなかった、からだ。だが、在る夜、皆で語らって蛍の舞いを愛でる「蛍宵(ほたるよい)」の刻、その一群の最中、詩人はこの凛子に袖を引かれた。
 「なあ、ちょっとこっち来てん?」
 蛍の群雄が、目に神々しい。
 「なあ、もうわたし、蛍にも厭きたわあ。なあ、どこかで二人で飲まへん?」
 「・・・・・・・・」
 (いや・・・)
 言葉を飲み込む、詩人。
蛍が、いまだに纏(まと)わりつく。
 「なあ、二人で飲み明かそやないの。」
 凛子の、いまにも密着してしまいかねない、顔、眉、口、鼻、くねった唇、長く伸びた鼻腔、吊上がった眉、面長、喩えてよく言う瓜実顔。ふらふらと、引いていた袖を今度は左右に ゆっくりと思わしげに揺り動かす。
 (・・・いや)
 詩人は、いまだ言葉を発しない。
 蛍宵に、糸蜻蛉(とんぼ)。青蔦(つた)も絡(から)みつく。
 「なあ、先生。すかしとらんとたまには一緒に飲もや。たんとお酌、するさかい。」
 その時、もうそこまでにあった凛子のそれらと、つんと匂った芳しき香りのいざないが詩人の何かを愕然とくず折れさせた。在り得ない、筈の葉影の中へと詩人は吸い寄せられるかのように分け入っていく。そのあとは、もう凛子の言いなりでどこで飲んだか、したたか酔って、彼がハッと我に返ったときはベッドの上であった。何故だか、自身の裸体にぎょっとした筈の詩人であったろうに、弄(まさぐ)る乳房はふくよかでその行為を止めるには忍びないほどの肌触りを感じてしまっていた。
 「あははっ、先生、そんな強(つよ)お揉んだらいかん。痛いさかい。」
 どこか不遜じみた、「先生」という響き。
 「あははっ、やっぱり先生も男やねえ。」
 ものを考えない自分との遭遇。詩人は、その時、生まれて初めて自身の、もうひとつの性癖に目覚めたのかもしれなかった。

連載小説『爛熟』35

 男が、詩人に酒を教えた。まれに所長の目を盗んでは自室でひとり、買い込んだウイスキーの小瓶を開けてちびりちびりと、喉に流し込んでゆく。「呑んでなきぁ、気持ちが萎えてしまうんだ。」暗闇の最中、まるで男だけが浮き彫りになっているかのようなスタンドライトひとつっきりの自室で、彼は創作ノートに沸々と胸中極まる何事かを書き込んでいく。・・・極まる?。その両の目は落ち窪み、まだ十代という若さで有り得ざる風体、髪はぼさぼさ、何故にそうまでして男は、書かずにをれないのか。だらんと下を向き、想い出したかのようにすっくとその顔面を持ち上げれば、また筆を走らす。傍線を無造作に引いて、いま生まれたばかりの文章を葬り去る。呻(うめ)きの呟きはまた呟きにならず、だが彼の、その時のその心の空間をその内面をその襞(ひだ)を執着を執念を一面だけでも察することが出来よう者であるならば、男のその呻きこそ、生、そこに必死になって噛り付く者の、「魂の咆哮とでも呼べる代物」であったろうか。「そう、であったと想いたい。」
 男は、ゆらりと立った。ドアを開け、詩人の、自室のノブを廻す。そこでは夜半、疑うべきも無き、真っ暗闇。「なぁ、渋谷。おまえ、もう寝たのか。良かったら俺に付き合え。呑みに行こう。」仕様が無い、と想いながらも詩人は大抵、その要求に答え、横たえていた身体を屹立させる。この男にはお世話になっている、という負い目がある?、いやそれよりも男の嘆きを真っ正面、向かい合って真摯に受け止められる男は、この僕よりもいまい、という気の衒(てら)いもある?、いやいや男と文学について唯、純粋に語り合っていたいだけだ、けっして親しい友が多くはない詩人にとって彼は詩人のひとつの拠り所、だったのではなかろうか。愚痴を息巻いた。お互いにヘドを吐いた。泣いている。ワアワア、わめき散らす。この頃はこのふたりに快活な宴(うたげ)は存しない。だがお互いがお互いを認め合い、相手の弱みを照射しようとする、そんなまっさらな語らいのときを持てたことこそ、詩人は清い、と感じた、はずだ。男にとっても詩人にとっても尊いひとときという名の譜、その時代であったとも言えるだろう。
 男は、語った。「俺達は脅かされているんだよ。この世の中の何者かに、何か得体の知れない何者かに。俺達は俺達なりに思考する、或いは目指すべき方向性というものが在る、だろう?、だがその先には大口を開けてある何者かがいまかいまか、もう来るかと大口を開けて待っているんだよ。けれど、俺達はそこへきっと向かわねばならないんだ。判るよな?お前なら。判るだろう?、そうするしか救われる道は無いんだよ。」
 そんな男の大層な言いっぷりに詩人は、眠っていた醜癖さえ晒(さら)された。酒が廻れば酔いに委(まか)せて辺り構わず管を巻く。その面立ちとはあまりにも違和する、形相となって詩人はこの世情のこの人間の淫らさを詩人なりに衝(つ)いた、激した、口惜しんだ。
 飽くなき妄執、どこまでも拘る、若さゆえの抗弁。詩人も断罪、する。我(われ)を。
 馬鹿らしい、ふざけている、と誰しもが想う。そうではない、ときをふたりはあの頃、確かに共有していたのであった。

連載小説『一人静』7

 僕は一時、酒に溺れた。在る先生から「酒はいけません。思考能力を減退させます。」と言われ「判ってますよ。」と管を巻き、それが元で疎遠にまでなったことも有り、「ああ、もういけない」としばし想うのだけれど、またつい喉が酒を欲、する。頑是無いことの繰り返し。内臓は手ひどくただれて生涯何度目かの長期入院生活を余儀なくされる羽目となってしまった、のでした。
 病院のベッドにひがな一日横たえていると、空虚な気配が漂ってきて、僕自身を苛立たせる。薄紅色のカーテンがさらさらと音も無く揺らいでも、それを見やる弱者が邪念に覆い尽くされていては、美しき創造物は訪れない、だろう。「・・・・・・このままもう俺も終い、かな?」ふと、起こる想念。まだまだ世情に興しておきたい文章は五万とあった。あったが、それもこのまま終いなら、「己もこれ」までさ、と諦めるしかあるまい。ほんにそれでは我が生涯は頑是無いままで終わることになるだろうけれど。
 看護師に、睡眠剤を嗜好する。強請る。無碍に断られる。「駄目ですよ。癖になります。いえ、先生は既に慢性的な常習者じゃないですか?」と嗤われる。「そこを曲げて」とおねだりすると看護師は、「もう、本当に困ったかたです」ねえ、などと想われるかのような顔を繕いながらも、「それでは半分、にして」さしあげますから、とふたつに折れたもう一方の塊をオブラートに包んで持って来てくれた。
 じいっと、この一塊のパピナールであろうか、錠剤を手の平に乗せて見やる。立派に深い常習者ではあろう。長い付き合いで十代の頃から口に含んではいる。或る時、辺りが暗く、漆黒の最中に至った時刻、傍らの睡眠剤の入った小瓶を眺め、ひとり思案に暮れたことが在る。この錠剤をそれこそ一息に小瓶丸ごと飲み干せばなるほど安楽ではあろうなと想う、こと自体が畏怖。凄まじき葛藤。かの文学者は、この場面からその想いを実践してのち、息絶えた。こういったものが市井の者にさえさも簡単に手に入るこの国こそが異常かもしれん、などと下らぬ感覚が忍び寄ってきたせいで事なきを得たが、それにしても物書きなんぞ、なんと、か弱き小動物であろう、ことか。
 余りにも同室の病人が口煩いので、部屋を個室に変えてもらった。ところが、どうだろう?、個室に移行してのち、看護師や担当の医師らが、僕を見舞ったのち、いやにひそひそ話しが増えたように感じられてひとりごち、した。そのうち、僕が尿意を催しトイレに立ったり、屋上へと階段の手摺に手をかけたりする度に「どこへ行かれます?」などと聞かれ始める。どうやら看護師らはどこぞの訳知り顔の誰かさんに言い含められて、僕の挙動を監視している、らしい。物書きが皆、そうとは限るまい。だが世間の人々はそうは想わない、らしのです。「ああ、ここでも」と僕は想いたって、その看護師らの目を抜ってひとり、街へ出た。向かったのは古書店。ガタガタと立て付けの悪い門扉を潜って訪れた古書店に入るなり、僕は漸く喉につかえた小骨の先を掴みかけた子供のような、安堵した気分に支配されたのでした。
 本の匂いは良いもの、です。恋愛ごとの蜜事よりも古書の只中にある方が、僕にはやはり安穏と心安い気分に浸れます。僕を幼い頃から、幾度と無く黄泉の国にいざなおうとする文学世界、なのですが、その綾織る世界の只中にこの身を留まらせていると不思議に落ち着いた心持になる、ことも事実なのです。
 僕は、生涯何度目かの長期入院生活を余儀なくされる羽目となってしまった。だがやはり、かれら多くの書物達は自身をきっと鼓舞してくれたのでした。彼らに「わたしはきっとご恩返しせねばならない。」病院に帰室後、看護師にこっぴどく怒られながらも、僕の心はしばし安穏の時を慰撫するかのように、晴れておりました。

連載小説『一人静』6・異文

 僕は、恒にどこか先細りしてしまいそうな窮屈で真っ暗な洞窟を当ても無く彷徨うているかのような、そんな閉塞感に脅かされて生きてきた。生み出す言語は恒に陳腐に想えたし、これじゃあ駄目だ、と声を荒げ自身を鼓舞しても、また澱みない空気はどこからか忍んできて、それはまた屈託のない澱みだったから、僕は定めしそんなメランコリックな自分が厭になり、なんどこの世にバイ、しようとした、ことか。
 真っ直ぐには歩んで来れなかった。ただ逸脱の地平の只中でじっと塞ぎ込んで、例えばこの頭を両手で抱え込んでいるかのような状態だけに固執、する気もなかった。中途半端、なのさ、と僕が僕を憂う。だけれども自分らしくとひとは殊更に言うけれど、その自分らしくなるものの実態が掴めぬものは、一体どうしたらいいのかな?。
 僕は恒に揺れて生きてきた。そんな路の在る最中、僕はいろいろなひとに恋をしたけれど、揺れている僕に終いには辟易して、みんなこの胸中から去っていった。
 僕は恒にがむしゃらでいたかった。このがむしゃらこそ、明日の己を興たすと本気で想っていた。灰色の観念こそ、欺瞞である。中庸の思想こそ、僕が忌み嫌う観念、だ。僕はどちらかの人間でいたかった。逃げもせず畏れも知れずはっきりと自身の心根を表明、する。僕はそんな人間でありたかった。
 嘘、偽りのない聖地へ。だがもう一方ではそんな聖地などこの世に無いことくらい知っていようわたしを僕は重々了解、している。「甘いんだよ、君の書くものは」ほらそら、また聞こえてきた。訳知り顔の批評家さん。
 僕らは自身に惑わずに生きていける人間、なんてこの世に存するはずがないと想って生きている。だがどう、だろう?、ただ欲望の渦の中に存する人間は果たしてこのカテゴリーが当て嵌まるだろう、か?、「そのときだけの事象に過ぎない」そう、言うだけなら事は簡単、でしょうけれどね。

  あくる日も
  あくる日も
  夜は明けない
  あっさりと
  A positive rises again
  陽はまた昇るなんて
   言語
  使わないでおくれ 

連載小説『一人静』5

 それから幾日も経たない日のこと、だった。彼女から連絡が有り、「明日にでも遇えない?」かと言う。僕はふたつ返事で了承、した。雑誌社の連載は終えたばかりだったし、何より長い連作にめどがつく思案は済んでいた。
 何物も考慮の外、だったから、僕の心根は晴れていた。
 病院へ赴くと父も存外、健啖そうだ。
 僕は僕の指定した店に行く道すがら、随分今では遠い記憶の只中に在る、彼女との想い出をまさぐってはみた、だがどうしたものか物悲しい、あまり良い気分には浸れぬ想い出ばかりが記憶に負ぶさってきて、僕は少しばかり、自身の胸中を持て余した。「振り返らぬ方が身の為だ」僕はいつものように、そんな想いに支配されたときの自身の癒し方を実践しようと計った。さしずめ誰に褒められようも無い慰撫心、だろうけれど・・・・・・。

 車を乗り付けた。ずんずん歩いて中へ入ると、奥の方から笑顔で手を振る女性が居る。彼女、だった。その脇には見慣れぬ中年配の男性がおり、なんだかかしこまって座っている。すぐ判然とした。彼女の夫、だろう?、その通りであった。「こちら、作家の辰巳さん、私の大学時代のお友達。これ、うちの旦那」彼女は、大きなジェスチャーで苦笑まじりに、そう言った。「やぁどうも、初めまして」僕は、いつものように頭を垂れた。「あっ初めましてぇ」弾かれたゴムのように半身を折る、旦那さん。随分、緊張なされているようだ。「いやぁ、家内から貴方のことを聞かされまして、私、もうびっくりしまして。もおお、是非是非お逢いしたいと想いまして。誠に失礼とは想いましたが」連れだって参ったと仰られる。そんな事を言われると、こちらの方が多大に緊張、する。
 「いえ、私はしがないもの書きなので。」
 「いやいや、ご謙遜を。私、実はこれでも貴方のデビューなさってからの、小説のタイトルリストを諳んじられるほどの、大ファンなのですよ」
 ・・・・・・・非常に困った。どこが「貴方みたいに面白いことひとつ言えないひとでね」なのだろう?、いやに流暢で、会話にそつが無い。その後は、こちらはただ聞き役に回って、旦那さんの快活な舌回りを、時にオーバーに肘で小突いていなしたり、或いは時に深く頷いたりしている、彼女の所作を微笑ましく想いながら僕は、じっと耳を傾けていた。
 そうして旦那さんはいよいよそれがこのしばしの邂逅のクライマックスであるかのように、懐手にしていたカバンの中から一冊の書籍を取り出した。どうやら、学校の教科書である、らしかった。
 「これは、今度、中学に上がった上の娘の国語の教科書なのですが、無論、ご存知ですよね?、貴方の小説が載っています。」
 「いや、本当ですか?、ああ、全然知りませんでした」
 「あら、そうなの?」
 「いや、こういったことはね、ううーん、例えば大學入試の試験問題なんかと一緒で、大抵、事後承諾でね、この教科書の掲載はまだ聞いていないなぁ」
 「あっ、そんなもんなんだ?」
 「うん、そんなもんだよ」
 さぞや驚いた風の旦那さんから引き取ってページを捲ると、確かに見覚えの有る文体が連なっている。因りによって僕の書いた物の中では失敗作と嘆いた、いわば自信喪失の作、である。そうして僕の預かり知らぬ(僕は写真嫌いだから、この世にそうそう無いはずなのに)肖像写真の添えられたプロフィール。これも年号が間違っていたり、ちょっと投げやりで作ったかのような、そう言っては製作者に失礼、だろうけれど無茶苦茶な体裁の教科書ではある。
 そんなこととは露知らぬ旦那さんの独演ぶりに僕は彼女の立場を汲んで最後まで付き合った。別れ際、その教科書に一筆サインして、嬉々として引き上げる旦那さんの背を見送りつつ、僕は僕の嬌態になんだか哀れささえ感じていた。僕はやはり、ただの人であった。彼女との十数年振りの再会に何を期待していたのだろう。彼女は明らかに僕の入る余地さえ微塵も無い空間の只中に存している、ひとじゃないか。
 
 自宅に戻ると、暗い部屋に明かりを灯した。そう、僕は、やはりいまだ世情のひと、であった。少々悲しかった。いや、どっと泪が出た。
 四月も数えられぬほどの日数を経ているのに、桜冷え、いやつつじ冷えとも言うべきか、随分、寒さを感じる夜半だ。僕は、ストーブの遠赤を起こした。薬缶を置いた。暫くしてコトコトと湯が鳴った。
 窓辺越しに星を見た。澄んでいた。辺りに灯かりは見えない。見えるのは満天の星空と、黒々と形だけを成す峰々、だけだ。その瞬間だった。
 その瞬間、だった。僕には判然と聞こえた。
 そう、それは確かに山の音だった。
 山の音。僕はそうか、とそれこそ瞬時に有る事を察した。
 いや、待てよ。そう、じゃない。
 想い過ごし、だろうさ?(心根に聞こえてきた、だとか、この心に響いてきたいにしえの音、だとかの所謂、思索的なことではなく・・・・・・)。

 僕がその時、瞬時に察した、有ることとは黄泉の国のあの方の、この言葉に拠るものなのです。「・・・・・・そうじゃないよ。」僕は、また泪に暮れてしまった、のでした。

連載小説『一人静』4

 「いつかは遭うかもしれないと想っていました。」ちょっと彼女は眩しいものでも見るかのような眼差しで、この僕を従えている、ようだった。
 僕は、閉口した。「う、うん・・・」普段の僕らしくも無く、どうしても伏し目がちになる。
 漸く口に点いて出た言葉は「いつから、この土地に?」けれどもその問いは、後から考えればもっとも的を得た疑問のひとつ、だったと言えるだろう。彼女の二言、三言が直ぐに僕の脳を覚醒させた。彼女は、その後、さる将来を嘱望される研究員の青年に見初められ、結婚。その夫の赴任地が福岡であり、二年ほど前から、その彼の生家であるこの地に移住してきているのだと言う。「どこか奇特なひと」で寡黙であり「民俗学みたいな地味な学術」の研究に没頭しており、「あのひとの生まれた場所は、あのひとのその探求心を満たす」にはかなり充足した土地であり、「ちっともあなたみたいにおもしろいこと、ひとつ言えないひとでね」。
 僕に出遭えたら、あれもこれも言おうと彼女は、まるで待ちかねた手紙の封を切る手ももどかしいかのように、次から次へとその後の事情を、一息に聞かせてくれた。
 (・・・・・・そうか、彼女の夫は僕とおんなじ土地の生まれ、だったのか)帰宅したのち、僕は「今度、またゆっくり場所を変えて」いろいろと話したいこともあるからと、僕の連絡先を書き込む為のメモ用紙を要求された古書店の店長の田舎者らしい屈託の無い笑顔を想い出しながら、ひとりごちした。彼女は、ほんに嬉しそうであった。そうして僕も、この歳で、ああも動揺することもなかったのにと、彼女との十数年振りのひと時に、苦笑の念を禁じえなかった。
 彼女は、美しかった。その微笑は、十数年振りという時をけっして感じさせぬほど、あの頃と同じく神々しき光を宿していた。
 僕は何物かにまた憑かれているかのような錯覚に陥って、ふと書棚から川端康成の書を取り出した。『伊豆の踊り子』で、ある。彼女が、あの旅娘を連想させたのだとしたら、僕はなんと短絡であろう。けれどそういった感慨とは別に、この書を取り出したという、その所作が僕のこの心根を優しく、させた。
 彼女は一体、今の僕に何を見出そうというのか?、いや、何を求めているというのか?、僕はそんな一時の思案に支配された久方振りの自身の胸中を計りかねて、いた。

連載小説『一人静』3

 それから何年の歳月が流れたことだろう。三十を過ぎ、下り坂、嗚呼、と溜息をつくまでもなく僕は気づけば、あの太宰が死んだ年になっていた。古里に居る。病いで倒れた父の介護の為に僕は東京での、言わば手づかずの仕事も放り投げて五年前に田舎に帰ってきた。古里は何も変わらない。幼き頃、駆け回った野や道もいまだにその地平には横たわっていた。変わったのは僕で、それはフゥーと吹きかければ直ぐに移ろいゆくであろう柔な心根だろうけれど、自然や風景は微塵も揺るがない。「夢破れて山河在り」何故だ。何故、僕は古里に帰ってきてから矢先、そう想ってしまったのだろうか?。
 毎日の日々は、頑是無い。往復の、父の病院先。立ち寄る新刊屋。古書店。幾ばくかの食料補給。TVは見ない。パソコン執筆。酒はほとんど飲まなくなって昔を知る友達からは、断酒かとからかわれるほど、だ。
 温泉町。至るところに泉は湧き、僕はちょっと日常の空気が澱んだな、と想うと車をぶらりと走らせてこの胸いっぱいまで湯に浸かる。心地良い。
 そんな或る日のこと、だった。僕はあまりにも思いがけないひとに出遭った。馴染みの古書店。小さな店で、見上げるほどだが並べれば数えて六つしかない書棚のひとつから、僕はいつものように一冊の古本を取り出して眺めていた。その時だ。後ろ背に僕はひとの視線を感じて、何気なく振り返った。「○○さん?・・・よね?」怪訝そうに伺うようにひとりの背の高い女性が、僕を従えている。確かに見覚えの在るその声は、すぐさま僕の記憶を呼び覚ました。驚いた。あまりにも驚いた。「ああ・・・」僕は声にならぬ声をあげた、はずだ。「・・・えっ?・・・どうして、ここに?」僕にとってあまりにも意外な異性が、そこに居る。僕の古里、に。彼女の郷里は確かこんな地方ではなく、東京、関東近県だったはずだ。なのに、どうして僕の古里に彼女は居るのだろう。めまぐるしく僕の脳細胞は流転、した。ちょっと面食らって混乱をきたす一歩手前、だったかもしれない。それほど僕は、この意外な十何年振りの再会に驚いたのだ。そう、その彼女とは、かつて僕が心から愛した半同棲生活みたいな事もしたことのある、あのふたつ年上の、堀辰雄を好んで読んでいた女性であった。

連載小説『一人静』2

 僕は生まれつきの、胃腸障害に悩まされ続けていた。10代の時分から、けれどどこか大言壮語したり、唾吐き、激したことを言ったりするものだから、そういう感じにはとても想われがたかったけれど、痛みがひどくて何度かそれなりの日数、休むだとか、疼くまって一日中寝ているだとか、けっして身体の丈夫な方ではなかった。あの頃、僕は十二指腸潰瘍が穿孔し腹膜炎を併発、救急車で運ばれて緊急手術を施すほどの、入院騒ぎを演じてしまった。実際、心細い限りで、気持ち的には、ひじょうに後ろ向きなことばかり考えられてしまって、ほんとうにやるせない感情が先に立つ。当時、大阪に就職していた妹が、両親の命を受け、駆けつけた際、この時のことを後年、述懐し「お兄ちゃんの顔を人目見たら、まるで他人かと見まがうほどの痩せようで」妹は病室で、それこそ人目を憚らず泣き出すほどの自身の衰弱ぶりであったようだ。四人部屋とはいえ、同室の方々も病人なのだから、けっしてけらけら、皆、笑いに講じたりしているわけではない。窓辺に見える東京大学の講堂が恨めしかった。
 とそこへ、以外というか、かの彼女がお見舞いに来てくれた。何故、以外かと言えば、お恥ずかしい話しだけれど、僕はこの病気をする以前、彼女に想いの丈を言い募り、やんわりと否定されていたから。その後いろいろと反転すべき事情もあって、実は1年振りの再会だったのです。僕は素直に嬉しかった。ベッドに横たわる僕に優しく語り掛ける彼女は、以前より一層神々しく、壮麗な異性に想えた。僕はこのとき余程、この再会が嬉しかったのでしょう、今度いつ逢えるか判らない、彼女との別れが惜しかったのか、点滴台を押してまで、待合室を経ての語らい、そして病院入り口ロビーまで、彼女を見送りました。
 彼女は別れ際、はっきりと僕にこう、言いました。「あなたはきっと元気になるわよ。だってあなたには黄泉の国から、川端康成という偉大な文豪が見守っていてくださるのだから」僕はそんな大袈裟な言い回しにちょっと苦笑せざるをえなかったけれど、微笑を湛えて、そう言った彼女の目」は真剣そのものだった。僕は彼女をいつまでもじっと見つめていたかった、だのに彼女は病院のロビーから程なくして僕の視界から消えてしまった。まだおもがゆい感情が僕の心根に残っている頃の出来事、だった。

連載小説『一人静』1

 川端康成の名品に、『山の音』というのが、あるのです。先達て、僕はそれこそ山の音を聞いた。と言っても、心根に聞こえてきた、だとか、この心に響いてきたいにしえの音、だとかの所謂、思索的なことではなく、それこそ正真正銘、山の音を聞いたのです。

 僕の大学時代、ふたつ上の先輩に東京は山の手育ちの壮麗な女性が居た。彼女はさる先輩が主宰していた文芸誌の投稿常連者で、堀辰雄の作をこよなく愛していると公言して憚らない、それこそかなりの容姿の女性だった。当時、地方から思想的には誰にも負けへんぞ、などと下あご持ち上げて、息巻きながら上京した僕の頑是無い初投稿作をどうしたものか、いたく気に入ってくれたらしく、何かというと、僕に目をかけてくれるようになった。講義内容をクリアーすべく関連書物が必要だ、と説けば、それならば神保町のなになにという書店に行けば、事足りるだろうとか、この俳優の作は、どこどこの映画館に行けばオールナイトで上映しているわよ、だとか、とにかくなにかと僕にはかなり優しく接してくれる女性、だった。普段はかなりの高飛車で(御免なさい)そういった振る舞いもしばし目撃していた僕にとっても、どういうわけか僕だけには朗らかで、時としてけなげなことを言ってくる、どうもそれは僕の書くものに対する評価以上のものが感じられて、けだし、けげんであった。けっしてどこからどう見ても、今風に言えばイケメンではない僕に対して、この態度はどうであろう、地方出の田舎者である僕は、ちょっと彼女とふたりっきりになるとドキマギさせられた。世の中にはあばたもえくぼという言葉もあってひょっとすればひょっとするかもしれないけれど、だからと言って、僕を一様にけげんにさせる振る舞いでもなかろう、と僕にはどこか恒に想わせる風であった。そんなある日、それこそそんな彼女の接する振る舞いに対する、答えは解けた。いやもう、いちどき、に。
 酒の席、彼女とふたりきり。彼女は、静かに柔らかに、こう言った。「おととしの夏、病気で死んでしまった兄さんに、あなたはどこか似てるのよ」
 なんだ、やはり僕の書いたものに対する純真な心根からの親しみではなかったのか?、僕は少し口惜しかった(彼女は、だからと言ってあなたの書いたものにはなんら関係の無いこと、と弁明はしてくれたけれど)。
 男と女の間柄。だけれども、やはり壮麗な女性とふたり連れ立って歩くことは、こちらの心持ちをどこか優雅で心地よい気分にさせる。僕と彼女は、その後もよく飲み歩いた。渋谷は道玄坂のちょっと洒落た酒屋。神楽坂の歴史を感じさせる、居酒屋さん。レトロな佇まいを醸し出す作りの、下北沢の珈琲館。大抵、彼女が財布の紐を緩める。僕はそそくさとついていくばかりだ。朝方まで飲んで、酔いつぶれた彼女を一人暮らしのマンションに担いで帰したことも、あった。
 そんな彼女に僕は、先達て十何年ぶりに出逢ったのです。


Appendix

Literature sight-seeing『風、早暁記。』

全タイトルを表示

introduction

風友仁(かぜともひと)

Author:風友仁(かぜともひと)
 
 沖に出たらば暗いでせう、
 櫂から滴垂る水の音は
 昵懇しいものに聞こえませう、
 ――あなたの言葉の杜切れ間を。

 月は聴き耳立てるでせう、
 すこしは降りても来るでせう、
 われら接唇する時に
 月は頭上にあるでせう。

 あなたはなほも、語るでせう、
 よしないことや拗言や、
 洩らさず私は聴くでせう、
 ――けれど漕ぐ手はやめないで。
   中原中也『湖上』拠り 
*『爛熟』この書を我が畏敬のひとり、中原中也の御霊に捧ぐ。


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皆々様の厚きご支持、心より傷み入ります。有難うございます。

*新たなる風の舞、ここに興つ。*
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*今後とも『爛熟』並びに風友仁の綾織る世界観にどうぞご支持、ご声援のほどを、宜しくお願い致します。
 
  2006・1・15 心を込めて。
         風友仁

*連載小説『爛熟』に就きまして*
 この物語は、空想の物語であり、一部事実を基に脚色なされておりますが、登場する人物及び団体の名称等、ある特定の人物及び団体等を示唆、揶揄、誹謗、中傷する類いのものではありません。飽くまでも架空の物語としてお読みくださいませ。またもしや名称、団体名等が同じでも飽くまでも架空の物語でありますのでその点、どうぞお知りおき下さいませ。皆様のご理解の程、何卒宜しくお願い致します。著者・風友仁


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Literature sight-seeing『風、早暁記。』

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