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連載小説『爛熟』34

     糸田玲子様
 ごめんなさい。貴女に僕は僕のこの想いをどうしても吐露しなければ、気が済まなくなってしまった。このままでは少し僕は苦しい。ぶしつけに、このようなお手紙をお送りする非礼をどうか、許してほしいのです。貴女は多分、驚くことでしょうね。或いは、そうと察していてくれたこと、なのかもしれませんね・・・・・・。ただ、これから綴る僕の想いは、けっしてよこしまなものなどではなく、僕の正直な貴女への想いであるということ。僕なりに僕の言葉で、はっきりとこの想いを書き記せたらと想っています。感情が先に立ち、殴り書いているように感じられたなら、どうか許してください、ごめんなさいね。本当に、突然、このようなお手紙をお渡ししてごめんなさいね。僕はこれでも努めて深く僕のことを顧みようとしているのですけれど、果たして上手く、この想いを伝えられるだろうか、とても不安なのです。やっぱり貴女にはきちんとこの心からの想いをそれこそきちんと伝えたいもの。僕なりの真心です。
 僕は、貴女が好きです。誰よりも深く愛してしまった。その気持ちに偽りなどという絵空事を挟ませる余地など、僕はひとすきまとて持ち合わせていません。僕は、世間のあ

連載小説『爛熟』第三章25~33

  『爛熟』第三章 風友仁
『a mature 』/爛熟<RANJYUKU>・part3 an author;Tomohito Kaze
 
  25
 少女は気が遠くなるかのような白雪に覆われた田園の彼方を見つめながら、ひとり佇み、詩人を想っていた。その顔半分はマフラーに埋(うず)まっており、手袋で覆っておかなければかじかむように手先が痛い。両の瞳がきらきらと夕闇の斜光を受け、煌いている。見紛(みまが)うばかりの陽の輝きに、桜桃色にまるで火照ったかのようなその浮雲のゆらとした流れに、一条の線を引いたかのような淡い空の残り辺に、立ち上(のぼ)る源泉の、その蒸気の消え入るさま、湧き立つさま、たゆたうさま、仄(ほの)かでは無いはっきりとそれと判る空気の宣揚(せんよう)、傍らには蝋梅(ろうばい)の葉。一陣の風が舞ってその葉が微かに音を成す。意識がさらと吸い取られてしまいそうな感覚が起こって、しばしそこを動けなかった。
 詩人は暫(しばら)く、この土地を離れると伝言してきた。実父の死を受け、自分なりに想うことがあるから、と。つまり、いま、ここには居ないのだ。なのに、少女は再び、この寒村にそのか細き足で訪れていた。その衝動を少女は少女なりに考察、した。逢いたい、逢いたい、逢えないならばせめてそのひとが幼い頃から慣れ親しんできた土地の情景に浸ってみたい、慰撫していただろうか、或いは意味も無く呪ったろうか、この大地でそのひととおんなじ外気をその肌で直に触れてみたい、この衝動は、有るひとつの隠しようの無い観念を忽ち連想させて、少女は戸惑い、懸念、した、叶うわけが無い、なんて邪(よこしま)なこと?「私って馬鹿ね・・・馬鹿、みたいよね、有り得ない。」、けれど偽らざる詩人への覚醒、だったろう・・・・・・。
 少女の父は、父で無かった。少女の母は、母で無かった。叔父夫婦に育てられた少女は本当の父や母を知らなかった。痩せぎすで、けれどどこか爛漫で、だのにそうそう手のかからない、「良い子」だったのよと、在る時母だとばかり想っていたひとから、いや普通にそんなことを意識などしないひとから、そのようないつぞやかあった過去を告白、された。始めは冗談とばかり想っていた、天真な性格が、そう想わせた、のだ。だが本当らしいと悟った時の驚愕(きょうがく)。明日は明日の風が吹く、有名な言葉の旋律が一瞬間、何故だかその心根にさらさらと浮かんだが身体は正直でその後一定の間、塞(ふさ)ぎこんでしまった。五肢(し)がけだるかった。それが少女の偽らざる胸中。
 
  26
 少女は物心をついた頃から、詩情の世界に溶け込むことが好き、だった。あからさまに口について吐けない感情も、詩に重ねれば物憂さに付託して一時(いっとき)は消える。自身でも詩を編んだ。ゲーテには薔薇(ばら)の花弁を委ねられる想いがした。アポリネールには自然の風雅な森林を訪ねるかのような、安息観を。プーシキンには慈しみをヴェルレーヌには失望をマラルメには知を、そうしてランボーには砂塵の荒野をさ迷い歩く孤独な詩情の綾を教わった。石川啄木も宮沢賢治も室生犀星も萩原朔太郎も、きっときっと悲嘆の境地を詩に委ねているかのように、想えて、ひとり心、墜ちた。だが、最も少女が愛でた詩人とは少女と同じ言語で綾織る、この日本人の中原中也という夭折の詩人であった。気持ちが既に萎えているのである。だのに、懸命にその気持ちを奮い立たせようとするかのような、その詩の世界。寂しいような、辛いような、厳かさとその悲壮感、しんみりと哀感を摩(さす)るように、その世界は息づいている・・・。
 そんな在る日のことだった。その中也をいと惜しむかのような文章に出遭った。ふいに訪れた文(ふみ)の誘(いざな)い。渋谷(しぶたに)優治というその文筆家は、文芸雑誌に連綿と中也に対する幼き頃からの想いを綴っていた。なんと「そう、まで好き」なのであろう?、少女は「絶対的にどうして」そう、まで好きなの?と想わせるかのような、その激した中也への文章に、俄然、興味が膨らんだ。そうしてこの文筆家がまた詩人・美咲優治と同一人物である、らしいことも瞬く間に知り得て、興味が羨望に代わり少女に、様々な所作を要求、し始めた。学校の、市営の、図書館に駆けてみる。在(あ)った。美咲優治の著作が。紐解いた。読んでみた。何故だろう、少女はみるみる溢れてくる泪の雫に嗚咽、した。止まらない。何故、泣いてしまったのか?。この生を謳っているわけではない。死を真っ正直に向かい入れているわけでもない。そこに在(あ)るのは自身をけっして、いやこの人間なるものをけっして肯定せぬ文、文章、だが、全く否定しきれない、そのもがきみたいなものが執々(しつしつ)と綴られており少女の胸に、滲(し)みた。
 当初、その詩集に掲げられているその詩人の肖像写真を覗きこんで、そのあまりの幼顔に同世代かと早合点してしまったが、その写真は詩人の十七の時のものだと判り、更にその余りの中性的な顔立ちに少女は声を失った。少女の好む顔立ち、だったからだ。少女は、そんな自身では不遜だとさえ想える感慨に沈み込んで唯独り、詩人を空想した。この詩人は、このいまに生きている。それもその詩文から察するにいまだに、そう独りで生きている。どういう感覚で詩を編む、のだろう?その生い立ちは?その実際の呟きは、「私の想像の域、以上かしら?」。逢いたい、逢ってみたい。是非、逢わねば。希望は執着に変化(へんげ)して少女のそれからそれへの想像は留まることを知らなかった。図書館に据付のパソコンで検索してみた。無論、そこに現住所など明記、されてはいない。駄目もとでと出版社に問い合わせてみたが、相手はお茶を濁すばかりで教えてはくれなかった。その思春期特有の依怙地(いこじ)さ。周躁(しゅうそう)感。少女は生まれて初めて他者を愛したかのような感覚に陥り、こういうものなのかしら、などと戸惑いながらも自身に先を急げと告げていた。

  27
 運命(さだめ)とは浪漫的、なものか?、赤い糸の伝説であったり、主の配罪に拠る業のようなもの、宿命とも言うべき出遭い、別れ・・・だがひとは歳を重ねるごとに、このようないわば見えざる世界への連想、空想を次第に想わなくなる。厳しい現実に晒(さら)されて、自身の技量だとか天賦(てんぷ)の才の無さ、だとかそういった生き様にすぐさま投影するかのような事態に陥って挫けてしまうから。「僕は駄目だなあ」「私ってなあーんにも出来ない」自ら、その扉を固く閉ざしてしまうからますます、運命などという言葉は遠くへと置き去りにしてしまう。自分でこうだ、と決めた空間は、それ以上なんら帯びない空間、でしかない。

 少女は、どうであったろう。運命という想いを、その心に刻んでみた。逢いたいと願う詩人に出遭うことこそ、運命というものであったか、どうか。なんら変わり映えのしない学園生活。そこに、詩人という名の水滴をひょいと投げる。輪は少しずつだがゆっくりと波紋を拡げ、何らかの紋章を想起させようか、輪は三重となり、四重となり五重となり、やがて溢れ出る大河と成す、であろう?・・・・・一片の花はただ一片の花でしかない。だが、その一片の花にもめしべが有り、或いはおしべが有り、更にその中央には花芯(かしん)が有るのだ。少女は憂えた。その全身で憂えた。少女の花芯ともいうべき心臓部が、どくどくと流れゆく血の激流部が、高鳴れば高鳴るほど、少女はその詩人に出遭えることこそ、運命、そのものであると呼称するであろうか・・・。

 文の誘(いざな)いは再び、少女の胸に跪(ひざまづ)いた。女学校帰り、重い鞄を下ろすやいなやの出来事であった。ドアフォンが鳴って、同性らしき声が、した。「ごめんくださーい」公団の、五階の、狭く窮屈な出入り口に、ミラー越しに覗けば四、五十代、中年の女性がふたり、こちらを窺(うかが)っている。少女は鎖で繋がれた距離間分のドアー越しに、ある小雑誌を受け取ったまでである。「何か?」「あら、お嬢ちゃんね。パパとかママは居ないのかしら?」「いえ、まだ帰ってきていないんです」「そう?・・・じゃあ仕方無いわね。宜しかったら、こちらでもパパかママに渡してもらいたいの」「・・・判りました。」その出来事は至極、あっさり終わったのだ。受け取った小雑誌の表には『わかば』とあってその下には『〇〇会慈善事業評議会』との名称が記されている。「なあんだ」という顔になる少女。小さな溜息と共に何気無く、目録をペラペラ捲(めく)っていたが、そこに少女は、在(あ)る男の肖像写真を認めてはっと息を呑んだ。声を一瞬間、飲み込んだ。口のうらで聞こえない叫びを放った。詩人・美咲優治「誓いの言葉」。二度目の文の誘いは、そうして少女を再び野外へと駆けさせる装いを擁していたのであった。

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 ネットカヘェへと勢いこんで、立てた自転車が転ぶさま。苦笑いしてもう一度自転車を立てるさま。少女には予感があった。入るなりすぐさまネットへと繋(つな)ぐ。『〇〇慈善事業評議会』・・・そこに求める詩人は存していた。「〇〇県〇〇群〇〇村」在住。ペーストし、そのまま検索してみる。「〇〇村役場」連絡先電話番号・・・。メモ書きし、一旦外へとまた駆ける。ポケットをまさぐるその手には携帯電話。番号をひとつひとつ丁寧に押していくさま。もしやパソコン据付のダイヤルフォンでは人目を憚った?もしやネットカヘェ、ロビーの電話BOXではまだ少女の執着が躊躇(ためら)われた?。村役場の、気の善(よ)さを会話に漂わす青年が応対してくれた。「あー、はいはい、そうですか?直接ね。良(い)いんとちゃいます?・・・先生の電話番号は、と。・・・」少女は、この時の胸の高鳴りを運命(さだめ)と後日、空(くう)を心に感じつつ称した。振り返れば、そこから少女は詩人に連絡をし、約束を取り付けたのだが、自身なりに「どう、したものか」と想わんばかりのその取り乱しようはいささか短兵急(たんぺいきゅう)な気もしたのだろうけれど、「可笑(おか)しなことをした」という感覚は全く無く、そこがこの少女の微笑ましきところでもあった、ろう。「すみません。あの・・・あの・・・一度そちらにお邪魔してもよろしいでしょうか?」「いや構いませんよ。あなたのご都合のよろしいときに来られれば良い、でしょう。」詩人は、出遅れて留守電に変わった際の少女のなんとも可愛らしき話しぶりに、その真面目そうな語り口に、そうしてメッセージが終わらぬ内に途中で切れてしまったご愛嬌振りに、心持ちが和らぐ想いが起こり、翻ってつい電話に出なかった粗相(そそう)を鑑(かんが)みつつ、再びかかってきたその少女とおぼしき着信音に今度はしっかと受話器を上げたのだった。
 少女は、やがて詩人を前にした。じっと見つめてみた。スラックスにセーター。どこにでも居そうな佇まい。だがその顔だけは揺れている。少女がときめきを肌身離さず、携えている、からだ。詩人は少女に優しかった。だがそれも誰にでも備わっている気配?、否、少女は知っていたのである。その時、既に。何を?、詩人の胸中を。それは土足でずかずかと入り込んでゆける物?いやいや、詩人の綾織る詩文を詩人の過ぎ行くときをさも自身のときであるかのように愛でる真摯(しんし)なる慕情(ぼじょう)を。少女は求めた。詩人の哀感を、哀切を。慾(よく)した。見定めようと計った。それは少女が幼き頃から有していた観念、こころ持ち。少女は既にこの時、嗅(か)ぎわけていたのである。詩人の憂憤を。いつぞやか途切れてしまいそうな、震撼(しんかん)と漂わすその気配を。
 少女は、幼い頃から詩情の世界に溶け込むことを、さも自身の生業(なりわい)であるかのように好んで生きてきた。詩人は機知を持ってそのことを本能で感じとった、はずだ。彼は、慈善事業団体との関わり合いなどといった世情の煩瑣な細々を、少女とのひとときでは一辺たりとも語らなかった。詩人は少女を崇(あが)めた、のだ。自身よりも、その半分にも満たない年頃の少女を。知る人ぞ知る、高名な詩人が少女を崇めた、のだ。「少女は僕とおんなじ棲家(すみか)に潜(ひそ)む住人、だ。」詩人は、そう易々(やすやす)と語っている。

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 誉れ高き主よ、我の、この胸にとまれ。教会の最頂部に設けられている、その大鐘が勢いよく振幅を起(た)てれば一帯に響き渡る、それらはひとの悲しき性を癒す一定の韻律、になる。そこにパイプオルガンの伴奏と共に合唱隊の調べが重なり、辺りは啓蒙の民の敬虔なる祈りで満たされる。はずだ、はずだ、はずだ。はず、さ。
 詩人は、どこへ来たか。実父の死を受け、寒村にひとり取り残された詩人は、果たしてどういう想いでそこへ現れたのか。幾人かの編集人に、「想うことがあるから」と書き留めた詩文やれ詩評文やれ一纏(ひとまと)めにして、メールで送っておき、旅にさっさと出た。これまでも慈善団体やれ講演やれと父の介護が気忙(ぜわ)しく日帰りがほとんどの旅、みたいな寄る辺無き行脚は行っていたが、古里を離れ、既に八日、彼は、あの青春の蹉跌(さてつ)を噛み締めるかのように、その二十代、若き頃の馴染みの場所を訪れては想い、訪れては煩(わずら)い、感慨を繰り返していた。
 あれから、もう何年が経ったことか。青山の、鬱蒼(うっそう)とした森の、いや晴れやかな木漏れ日に照射する、きらきらと眩しい、伸びた枝葉がゆっくりとしなる、照り返しがその眼(まなこ)を抉(えぐ)る、側壁に無論、反照(はんしょう)している、それら太陽の微笑が、自然の万物が、健やかげに謳歌するかのような、そこへと翳した手のぬくもりが、肌のぬくもりが、あきらかにつるりとしており、まさに「初々しかった、のだ」と呟いた、あのうららかで、艶(つや)美しかれ初夏。それから、もう、十五年?、六年、十七、八年?、再び詩人はその礼拝堂のミサに、姿を現したのであった。詩人の最愛の異性、糸田怜子(いとだれいこ)はイエス・キリストにその想いを託す、信者であった。彼女はあの頃、揺れる心情のまま、けれど安息日には出来うる限り祈りを捧げにきた。小劇団の舞台女優。スポットライトを浴びた彼女は神々しく、いつしか引き込まれるように詩人も洗礼を享(う)けた。
 祈りとは懺悔(ざんげ)である。この汚らわしき欲望を満たす為に蔓延(はびこ)ってしまった、或いは生まれながらにして既にその欲望の種として、この世に生を受けた者、皆、その全ての穢(けが)れを、洗い流そうとする懸命なる儀式である。いやいや、それらを人間の本能と見据え、ひっくるめて許容する、大いなる魂を培おうとする、神聖なる儀式である。
 なのに、随分長い間、そこにひざまずかなかった詩人には、主のご宣託はあまりにも過酷であった?・・・・・・パイプオルガンの音(ね)と合唱隊の響音(きょうおん)。めまぐるしく交錯し、やがてその音は濁音となり、嬌声音となり、狂った死人が群れをなし叫び狂うかのような呻(うめ)きとなって、詩人の嚢中(のうちゅう)を掻(か)き乱した。あああ、やめてくれ、うるさい、割れそうだ、頭が・・・苦しい、いやだ、僕は死にたくない、僕は悪くない・・・僕は・・・僕は。
 詩人はそそとした静音(せいおん)の響きの最中、見上げた後ろ背に掲げられていたイエス・キリストの十字架に処せられた石像を後に、教会を出た。五十歩百歩と歩んでいく。ゆっくりゆっくり歩んでいく。往来に出た。そこで楽曲の舞いは潰(つい)えた。ひっきりなしの車の波。詩人の脇を通り過ぎる彼、彼女らはみんなげらげらと笑いあいながら、さも愉しげに自身の目的地に向かって闊歩(かっぽ)しているではないか。

 ・・・・・・ほんの一瞬、間だったね。僕も君らとおんなじ人間さ。

  30
 自死。一度目は服毒。二度目は静脈(じょうみゃく)断裂。未遂に終わった、だがかつての、詩人自らのこれら行為は主への冒涜、以外の何ものでもない。主は、自らの死をけっして自らに課してはいない、はずだ。奉仕の精神は生あるところにこそ輝きを生(う)む。死してはけっして煌(きらめ)いてはくれぬもの?、
 窮するとひとは澱む。留まる。動かなくなる。落ち込む。凹(へこ)む。詩人はそこから周囲の想いも及ばぬ行為にでて、その己自身を追い込んだに過ぎない。自業自得とは、必ず、そこに伏線が在する。詩人は他者に哂(わら)われて当然、だ。常人が思考すれば留まる言動をさもありなんと起こしたのだから、嘲笑われて当然、だ。馬鹿で間抜けな詩人さん。・・・だ、などと、詩人は何度、あの頃の我が身を省みて断罪、したことか。その想いの先が、自死的行為?、苦悩の心中で彼には、その生に対してそうすることでしかあがなう術を見いだせなかったというのだろうか。

 北陸路は、寒(かん)の霙(みぞれ)を呼んでいた。木(こ)の芽時(めどき)にも関わらず遠方では、あれは春雷(しゅんらい)という奴であろう、なにごとか雲の切れ間から稲妻らしきものが地上へと刺している。小さな箱の中。二両編成の、電車のガタガタと揺れる座席でまどろんでいた詩人は彼方にその閃光を見た。またたくまにまたよそよそと迫り来る過去の戦慄?、いや彼はそこにぽつねんと座っているだけではないか。
 更に電車は北へ北へと向かう。与えられた時間は、詩人の想うままに在(あ)り、その命を自身で縮めぬ限り、潤沢(じゅんたく)な、それは自在なる一里塚(いちりづか)、とも言えなくもない。求める場所は求める場所に在(あ)り、詩人が厭(あ)くことを知らなければきっと扉を開いて易々と泰然と迎えてくれることだろう。だが、その続きは誰にも解せない。
 これまでへの静々と想い起こされる情景。ひとはそれらを追憶の彼方という引き出しにしまいこみ、忘れた振りをしているに過ぎない。忘れた振りをしなければ生きていけない、から。まどろむ詩人の傍らをよちよち歩きの坊やが通り過ぎて行く。詩人は、ふとその子を目に掠(かす)めながらそんな彼方を遮断しようと再び躍起になる?、よせやい、潤沢な時間はさも潤沢に詩人のその懐にある、と言ってるじゃあないか。歩んでいるのさ。何処(どこ)へ?過去へ?未来へ?明日へ?。振り返るばかりが能、じゃあないよ。
 よちよち歩きの子の後に、十歳ぐらいの子、だろうか、お兄さん風の子が何事か発しながら駆けていく。いまだ続く春雷のせいで、そうしてその子のように駆け寄るが如く迫り来た春雷のせいで、箱の中にはその稲光しか差し込まぬのだけれど、それらがまた詩人のまどろみをこともあろうに易々(やすやす)と誘発して可笑しな心持ち、にはなる。外はきっと嵐、なのさ。だのに詩人はその外(ほか)に居る。まだ三十路を重ねぬであろう母がふたりの子を諭すかのように身振り手振りで言葉を尽くしている。稲光の中にその三様がシルエットと化す。詩人にはその母の問いかけは聞き取れない。「あの時も確か、どんよりとした雲の間に間から閃光がほとばしって随分心細い想いを抱いたっけ・・・」泣きついた母の懐でしくしくと嗚咽した自分。詩人はその陰影にあの頃を見た?、あの頃、あの時がふいにこの時、詩人の脳裏に蘇ってきて彼は深くけれど安らげにその瞼を閉じたのである。
 
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 やがて、雨を携えて覆い被さってくるであろう嵐。遠来にやや、と望むは閃光。そうだね、あの時も上空は迫り来る嵐を孕(はら)んでいたろうねえ。僕は何処までも地平の及ぶ限り続いているかのような野っ原の、いわば一迷い人、みたいなものだったろう。「随分、心細かった。僕はいまにも泣き出したいような気分に陥って・・・。随分、心細かったよ。随分、随分ね・・・・・・」 

 あれは一体、いつのこと、だったろうねえ。小学校の低学年、いや中学年、かなあ。まだ半ズボンでも穿(は)いていた頃のことさ。僕にもそんな、まあ、例えばほっぺたを真っ赤に染めている、みたいなさ、そういう時期もあったんだよ。あの頃、僕には同じクラスにね、かなり好きな子がいてね、その彼女の誕生日、そうだな、きっと何日も前から、学校の帰り道に寄り道してね、その女の子の為に、野っ原を探し回っていたんだよ。うん、約束したんだよね。その女の子の誕生日に、「きっと持っていればそれだけで幸せになるという四葉のクローバー」をあげると約束したんだよね。まあ、迷信さ。けれどあの時、僕は懸命でね、どうにかして四葉のクローバー、その贈り物を手中にしたくてね、うん、野や山をほんとに這いずり回ったね。だけどどうしても四葉のクローバーは見つからないんだ。クローバーの一群はそこかしこにあるっていうのにさ、だのにどうしても四葉のクローバー、だけが見つからない。子供の頃だからね、その内、泣きたくなってくるんだよ。どうしてもどう足掻(あが)いても、ハハハッ、欲しいものが得られないものだから。日暮れてくるだろう?、確か、雷か何かごろごろ音を発(た)てててねえ、終いには見つけられない自分が情けなくなってきて、どう、そういう心待ち、気持ちだねえ、自分でもどうしたらいいのか、口惜しいっていうかさ、やりきれなかったよね。「僕は彼女に約束したじゃあないか」そういう気持ちに陥ってしまってねえ、仕方なかった。ほんと、もういろんな場所を何日も何日も探し回ったんだよ。だけど得られなかったよね。
 そうして、その子の誕生日。僕は「御免ね」と言って、仕様が無い、素直に謝ったんだよ。御免ね。見つけられなかったよって。けど彼女は辛辣(しんらつ)だったなあ。うん、その子にそう、告げると彼女は、物凄い剣幕で怒り出してね、ひどく詰(なじ)られた。「約束したじゃない。四葉のクローバーをあげるって」「約束したのにひどいじゃない。嘘吐き!!ッ。」僕は俯いたっきり、なんの反論もしなかった。まあ、言い訳をしたく無かったというのかな、実際、いまだに想い出すのは、その時、詰られた時の心持ち、だね。。いまだにそういうことはしっかり覚えている、ものさ。「・・・見つけられなかった僕が悪い。約束を破った僕が悪い。嘘吐きと言われても仕方が無い。約束をしたのも約束を破ったのも、この僕だ。だからこの僕こそが悪い。」しょげたよ。大袈裟じゃなく、この身の終わり、みたいな気になったよ。泣きべそをかいて家(うち)へとぼとぼと帰っていったらさあ、あの時、その道すがら、僕は母さんに逢ったんだよ。まあ、大抵、母親なんて者はそんな優しい部分が有るのかもしれないけれどね、母さんは事情を、うん、上手くそっと僕から聞きだしてね、慰めてくれたよ・・・。「あんたは精一杯のことをしたんよ。そういう気持ちは大事にせな、あかんよ。いつかきっと判ってくれる。あんたはほんにいい子、や。」ハハハハッ。まるで気持ち悪い。マザコンだな。頭を撫でられる。頬をぎゅっと両手で摘(つ)ままれたり摩(さす)られたりとかさ。
 
 それでも、僕はその後(あと)も探し回った記憶が在る。挙句、見つけられたと言う想い出が浮かばない。きっと長い間、それからその子に口を聞いてもらえなかったんだよねえ。「あの頃、僕は想ったものさ。見つけられなかった僕が一番いけなかったんだって。」

  32
 原色の町が在る。それは生まれた居所(いどころ)か。灰色の空が在る。それは這(は)いつくばって己の希(ねが)いを乞う場所か。十八に成る。原色の町を出た。遅生まれの詩人、ゆえに生まれたその日には、上京して既に東京に存した。卒業証書を受け取るや否や、詩人は餌をついばむ鳥が周囲の嬌声に驚いて飛び立つように、親の庇護から一時(いっとき)でも早く逃れたい、などといっぱしの想いに募らされてその町から出(い)でた。文京区は本郷、その三丁目、そこから程なく歩んだ先には、当時後楽園球場、夜ともなればその騒然とした気配、漂う町に彼は新たなる住処(すみか)を見い出した。いまから、あれは一体、幾年、回想の頃だろう。二十年、いや二十一年か。白山道りを駆けた。登った。息、切れた。時にはたすき掛け、時には自転車、当事ですらバイクが主流の配達にも関わらず所長の「自転車の方が経済的で良い」という、ただただ余りに全うな、ただただ余りに無碍(むげ)な理由で走らされた、駆け上がらされた、左へ右へ上へと下へと、階段の無い公団住宅は骨が折れるよ、まして「他社(ほか)よりサービスとして当販売店は、ドアポケットまでお運びしますから。他社は一回の集合ポストに入れて行くだけでしょう?」などといった配る身を顧みない勧誘などするものだから、彼らは、最上階まで駆けねばならない。新聞奨学生。砕け散る?何が?・・・。十七で詩を編んだ。発表した。激評、詩賞授与。一気に名が興(た)った。だが売れない。喰えない。なら、もっと自分を高めたい。よしんば上級学府へ。詩人はその年頃、渾身、勉学に勤しんだ。朗報が入った。あの町へ。その大学へ。だが、もうもう親の慰みは欲しくない。詩人にもそんな勘考に耽る、お年頃という何処吹く風の時代があった。
 だがだが、想うは易し。講義を受けつつ惰眠に陥って、また新聞を明くる日も明くる日も配る、走り込む日々は詩人が考えていた以上にその肉体を精神をくたくたにさせた。
 上京し、二ヶ月もせぬ内に、まずは一度目の入院、二度目、三度目、新聞店の所長も辛抱強く、詩人を扱った。他にひとが居ない?・・・それでも半年が過ぎる。過労入院の延べ日数が入院する度に短く、なる。詩人はあまちゃんだ。だのにそれこそ歯を食いしばってその己自身で望んだ生活にしがみついていった。雨にも負けず風にも負けず・・・賢治詠うところのまた雨の日も風の日も雨合羽を着て、濡れぬようビニール用紙に包めてある新聞の一片(いちへん)を小脇に抱え、階段を駆ける。「そうさ、これもよく夢にいまだに見る情景。」・・・小雨か?。螺旋の階段をぐるぐる駆け上る。眩暈が起こる。ドアポケットに新聞を入れ込む。外は真っ暗。お月様はその貌(かお)を今ではとんと忘れてしまったね。ああ、眩暈がする。足元がふらつく。「嗚呼嗚呼、厭(いや)だ、厭だ、全くこうも動悸が高鳴っては成人も知らぬ間に己はこの世の藻屑(もくず)となるのか」嗚呼、草稿用紙に向かって何も言葉が出ぬ時と同(おんな)じ感覚、だ。新聞を入れたと、ほぼ同時に中で引き抜く音がする。「そういう手合いほど、いつも遅い遅いと苦情を繰り陳(の)べる馬鹿野郎で、そういう奴に限って集金の時期は大抵、居留守を使いやがる。」詩人の同居人の、寄宿生の一群から憤懣が聞こえてきたりもそりゃあ、するさ。詩人は特別に寡黙(かもく)な方では無かった。気がそそられると至って饒舌なときもあった。だが、大抵はただ黙って走り込んでいた、あの当事。そんな詩人のこの頃にその生涯、いやきっとその死するその時まで忘れることは無いであろう、相思の友人が現れた。その新聞店の同居人、寄宿生であり小説家志望の文学青年、詩人と同年齢、北国の、真冬ともなれば深雪(みゆき)の出身、その名を高坂宗一(こうさかそういち)と言った。

  33
 高坂は、その少年時、両親の離婚を経て父を選び上京してきた。その多くの青年、少女達がそう、であるように高坂もまた、その多くを語ろうとはしなかった。我私(がし)が強く、自尊心が凄まじい。けれどその鋭い眼光とは裏腹に笑うと相好、崩れ、愛嬌が見て取れ、そこが彼の好まざる異性との出遭いを呼びこむものらしく、高坂はいつしか心、砕く相手としか笑顔を見せぬようになっていた。例えば彼の文学に対する一言(いちげん)はどこか無碍・強弁・一刀両断を帯びていて、「世の中を巻き込んでいくような、或る導きを帯びた小説を編まなければ駄目だね。」「理想じゃあ無い。この数年で良いものを編めなければ、俺は俺のこれまでを全否定することになる。」「日本の文学は川端康成の自殺によって終わったね。暴論、じゃあない。その後(あと)のものは、ただたんに事象を並べているに過ぎないよ。」「文学に理屈は必要、だ。理論と置き換えてもいい。ひとつの或いは幾つかの理屈をもって小説は編む、ものさ。じゃないとただの物語になる。」あまりにも窮屈で、その言葉尻にはその生に対する、何か醜悪心みたいなものが息づいており、生き急ぐ文学青年にありがちな物言いを時に覗(のぞ)かせていた。毎朝、毎夕、チラシを織り込み、新聞を束ね、自転車の荷台に乗せあの路この路と駆けて行く。この繰り返しの合間に小説を書くという所作が待つ。大学にも向かわなければならない。「どこかそういう己の境遇に何がしかの気概を吹き込まなければ、ちゃんちゃら馬鹿らしくってやってられないだろう?。」だのに高阪は、どこか周囲が驚くほどの義侠心を秘めた男で、詩人が病(やまい)に臥(ふ)せり入院加療中の折りにはその都度、自身から発して詩人の受け持ち区域まで新聞を配ってくれたりもした。「しようがないよ。そういうときはお互い様さ。」そのような佇まいが、一年次から他者を圧していた、と言うべきか、瞬(またた)く間に上級生らからも一目置かれる存在となっていった。
 或る日のこと、高坂は一冊の詩集をその傍らに携えてにやにやと悪戯(いたずら)っ子がいまにもその獲物を捕らえようかとするかのような微笑を湛えながら、詩人の部屋に入ってきた。詩人はその時その部屋を、まるでその物体ひとつっきりで凌駕してしまいかねないようなベッドの上で身体を横たえ気休めしており、高坂のなんとも測りかねるその微笑につい、釣られ笑いさえ起してしまった。「渋谷(しぶたに)。俺はおまえを見下げていたようだな。」高坂は、そう言ってゆっくりと一冊の書物を詩人の前に差し出した。その表紙には『美咲優治第一詩集』と在る。「今日、大学の図書館でこの本が俺を導いた。偶然とはあまりに言い難い。目に見えざる者がこの俺にこの本を読め、と呟いてきたんだよ。俺が図書館に入ると、この本の背表紙がきらきら眩(まばゆ)いくらいに光って見えた。読めば解る、開けば啓示がある、と言わんばかりにな。俺は取り出した。この詩集を。美咲優治第一詩集。中を開いて驚いた。俺は俺の間近(まじか)で知る男の顔をそこに見た。」高坂は、そんな寓話的な言い回しを演者たっぷりに一字一句、斬るように呟き、煙(けむ)に巻いた。「この半年、出遭ってからおまえ、ちっともこういうことを言わねえもんだから、参ったよ。この俺がおまえに息巻いた文学理論みたいなものは、まあ実は釈迦に説法、みたいなものだったんだろうな」「いや・・・そんなことはないよ。君には凄く教えられるものがあるよ。」「本当、かよ?、よく言うぜ。」「いや、本当さ。」

 ここにも、またひとり。人間・渋谷優治がその十代で自身に目覚め、抉(えぐ)り、掘り起こそうと躍起になった、それは十代ながらも自身をしっかと活写しようと努めた、ものの成果。美咲優治という詩人に成り代わってからのその、詩の羅列に触れた、者。詩はひととひとを断絶させるものではなく、繋(つな)ぐもの。それらに触れた市井(しせい)の人々達。

 「十七で、詩人としてデビュー。そうか、おまえは既に名の在る花だったのか・・・。」高坂は詩人が受け取った詩集を、まるで眩しいものでも見るかのような顔つきになって、さもさも感慨深そうにそう、告げた。「いや・・・名の在る花と言ってもたいしたものは書けちゃいないから。」「すかしてらあ」見上げてすぐ俯きがちに、呟いた詩人に梶はすかさず、そう返した。更に我関せずという風で「・・・面白くなってきた。こんな近くに名の在る花、がよ。この俺も負けちゃあいらねないね。おい、渋谷、こんな俺だがよ、今後もどうぞ、宜しくな。」高坂は屈託の無い笑いを見せながら、そう言って片方の手を詩人の前へ差し出した。「いや、こちらこそ・・・」詩人の手をしっかと握り返した高坂。(暖かい手、だな。)後々までも想い出すことになる、心地良い、その時の陰影。だが、高坂の、その世情を見やる己を見やる醜悪感が高阪本人に焦りと倦怠を募らせ、そのことが原因となってよもや、あの事件を産もうとは、この時のふたりには察せられざることではあっただろう。



連載小説『爛熟』33

 高坂 は、その少年時、両親の離婚を経て父を選び上京してきた。その多くの青年、少女達がそう、であるように高坂もまた、その多くを語ろうとはしなかった。我私(がし)が強く、自尊心が凄まじい。けれどその鋭い眼光とは裏腹に笑うと相好、崩れ、愛嬌が見て取れ、そこが彼の好まざる異性との出遭いを呼びこむものらしく、高坂はいつしか心、砕く相手としか笑顔を見せぬようになっていた。例えば彼の文学に対する一言(いちげん)はどこか無碍・強弁・一刀両断を帯びていて、「世の中を巻き込んでいくような、或る導きを帯びた小説を編まなければ駄目だね。」「理想じゃあ無い。この数年で良いものを編めなければ、俺は俺のこれまでを全否定することになる。」「日本の文学は川端康成の自殺によって終わったね。暴論、じゃあない。その後(あと)のものは、ただたんに事象を並べているに過ぎないよ。」「文学に理屈は必要、だ。理論と置き換えてもいい。ひとつの或いは幾つかの理屈をもって小説は編む、ものさ。じゃないとただの物語になる。」あまりにも窮屈で、その言葉尻にはその生に対する、何か醜悪心みたいなものが息づいており、生き急ぐ文学青年にありがちな物言いを時に覗(のぞ)かせていた。毎朝、毎夕、チラシを織り込み、新聞を束ね、自転車の荷台に乗せあの路この路と駆けて行く。この繰り返しの合間に小説を書くという所作が待つ。大学にも向かわなければならない。「どこかそういう己の境遇に何がしかの気概を吹き込まなければ、ちゃんちゃら馬鹿らしくってやってられないだろう?。」だのに高坂は、どこか周囲が驚くほどの義侠心を秘めた男で、詩人が病(やまい)に臥(ふ)せり入院加療中の折りにはその都度、自身から発して詩人の受け持ち区域まで新聞を配ってくれたりもした。「しようがないよ。そういうときはお互い様さ。」そのような佇まいが、一年次から他者を圧していた、と言うべきか、瞬(またた)く間に上級生らからも一目置かれる存在となっていった。
 或る日のこと、高坂は一冊の詩集をその傍らに携えてにやにやと悪戯(いたずら)っ子がいまにもその獲物を捕らえようかとするかのような微笑を湛えながら、詩人の部屋に入ってきた。詩人はその時その部屋を、まるでその物体ひとつっきりで凌駕してしまいかねないようなベッドの上で身体を横たえ気休めしており、高坂のなんとも測りかねるその微笑につい、釣られ笑いさえ起してしまった。「渋谷(しぶたに)。俺はおまえを見下げていたようだな。」高坂は、そう言ってゆっくりと一冊の書物を詩人の前に差し出した。その表紙には『美咲優治第一詩集』と在る。「今日、大学の図書館でこの本が俺を導いた。偶然とはあまりに言い難い。目に見えざる者がこの俺にこの本を読め、と呟いてきたんだよ。俺が図書館に入ると、この本の背表紙がきらきら眩(まばゆ)いくらいに光って見えた。読めば解る、開けば啓示がある、と言わんばかりにな。俺は取り出した。この詩集を。美咲優治第一詩集。中を開いて驚いた。俺は俺の間近(まじか)で知る男の顔をそこに見た。」高坂は、そんな寓話的な言い回しを演者たっぷりに一字一句、斬るように呟き、煙(けむ)に巻いた。「この半年、出遭ってからおまえ、ちっともこういうことを言わねえもんだから、参ったよ。この俺がおまえに息巻いた文学理論みたいなものは、まあ実は釈迦に説法、みたいなものだったんだろうな」「いや・・・そんなことはないよ。君には凄く教えられるものがあるよ。」「本当、かよ?、よく言うぜ。」「いや、本当さ。」

 ここにも、またひとり。人間・渋谷優治がその十代で自身に目覚め、抉(えぐ)り、掘り起こそうと躍起になった、それは十代ながらも自身をしっかと活写しようと努めた、ものの成果。美咲優治という詩人に成り代わってからのその、詩の羅列に触れた、者。詩はひととひとを断絶させるものではなく、繋(つな)ぐもの。それらに触れた市井(しせい)の人々達。

 「十七で、詩人としてデビュー。そうか、おまえは既に名の在る花だったのか・・・。」高坂は詩人が受け取った詩集を、まるで眩しいものでも見るかのような顔つきになって、さもさも感慨深そうにそう、告げた。「いや・・・名の在る花と言ってもたいしたものは書けちゃいないから。」「すかしてらあ」見上げてすぐ俯きがちに、呟いた詩人に梶はすかさず、そう返した。更に我関せずという風で「・・・面白くなってきた。こんな近くに名の在る花、がよ。この俺も負けちゃあいらねないね。おい、渋谷、こんな俺だがよ、今後もどうぞ、宜しくな。」高坂は屈託の無い笑いを見せながら、そう言って片方の手を詩人の前へ差し出した。「いや、こちらこそ・・・」詩人の手をしっかと握り返した高坂。(暖かい手、だな。)後々までも想い出すことになる、心地良い、その時の陰影。だが、高坂の、その世情を見やる己を見やる醜悪感が梶本人に焦りと倦怠を募らせ、そのことが原因となってよもや、あの事件を産もうとは、この時のふたりには察せられざることではあっただろう。

連載小説『爛熟』32

 原色の町が在る。それは生まれた居所(いどころ)か。灰色の空が在る。それは這(は)いつくばって己の希(ねが)いを乞う場所か。十八に成る。原色の町を出た。遅生まれの詩人、ゆえに生まれたその日には、上京して既に東京に存した。卒業証書を受け取るや否や、詩人は餌をついばむ鳥が周囲の嬌声に驚いて飛び立つように、親の庇護から一時(いっとき)でも早く逃れたい、などといっぱしの想いに募らされてその町から出(い)でた。文京区は本郷、その三丁目、そこから程なく歩んだ先には、当時後楽園球場、夜ともなればその騒然とした気配、漂う町に彼は新たなる住処(すみか)を見い出した。いまから、あれは一体、幾年、回想の頃だろう。二十年、いや二十一年か。白山道りを駆けた。登った。息、切れた。時にはたすき掛け、時には自転車、当事ですらバイクが主流の配達にも関わらず所長の「自転車の方が経済的で良い」という、ただただ余りに全うな、ただただ余りに無碍(むげ)な理由で走らされた、駆け上がらされた、左へ右へ上へと下へと、階段の無い公団住宅は骨が折れるよ、まして「他社(ほか)よりサービスとして当販売店は、ドアポケットまでお運びしますから。他社は一回の集合ポストに入れて行くだけでしょう?」などといった配る身を顧みない勧誘などするものだから、彼らは、最上階まで駆けねばならない。新聞奨学生。砕け散る?何が?・・・。十七で詩を編んだ。発表した。激評、詩賞授与。一気に名が興(た)った。だが売れない。喰えない。なら、もっと自分を高めたい。よしんば上級学府へ。詩人はその年頃、渾身、勉学に勤しんだ。朗報が入った。あの町へ。その大学へ。だが、もうもう親の慰みは欲しくない。詩人にもそんな勘考に耽る、お年頃という何処吹く風の時代があった。
 だがだが、想うは易し。講義を受けつつ惰眠に陥って、また新聞を明くる日も明くる日も配る、走り込む日々は詩人が考えていた以上にその肉体を精神をくたくたにさせた。
 上京し、二ヶ月もせぬ内に、まずは一度目の入院、二度目、三度目、新聞店の所長も辛抱強く、詩人を扱った。他にひとが居ない?・・・それでも半年が過ぎる。過労入院の延べ日数が入院する度に短く、なる。詩人はあまちゃんだ。だのにそれこそ歯を食いしばってその己自身で望んだ生活にしがみついていった。雨にも負けず風にも負けず・・・賢治詠うところのまた雨の日も風の日も雨合羽を着て、濡れぬようビニール用紙に包めてある新聞の一片(いちへん)を小脇に抱え、階段を駆ける。「そうさ、これもよく夢にいまだに見る情景。」・・・小雨か?。螺旋の階段をぐるぐる駆け上る。眩暈が起こる。ドアポケットに新聞を入れ込む。外は真っ暗。お月様はその貌(かお)を今ではとんと忘れてしまったね。ああ、眩暈がする。足元がふらつく。「嗚呼嗚呼、厭(いや)だ、厭だ、全くこうも動悸が高鳴っては成人も知らぬ間に己はこの世の藻屑(もくず)となるのか」嗚呼、草稿用紙に向かって何も言葉が出ぬ時と同(おんな)じ感覚、だ。新聞を入れたと、ほぼ同時に中で引き抜く音がする。「そういう手合いほど、いつも遅い遅いと苦情を繰り陳(の)べる馬鹿野郎で、そういう奴に限って集金の時期は大抵、居留守を使いやがる。」詩人の同居人の、寄宿生の一群から憤懣が聞こえてきたりもそりゃあ、するさ。詩人は特別に寡黙(かもく)な方では無かった。気がそそられると至って饒舌なときもあった。だが、大抵はただ黙って走り込んでいた、あの当事。そんな詩人のこの頃にその生涯、いやきっとその死するその時まで忘れることは無いであろう、相思の友人が現れた。その新聞店の同居人、寄宿生であり小説家志望の文学青年、詩人と同年齢、北国の、真冬ともなれば深雪(みゆき)の出身、その名を高阪宗一(こうさかそういち)と言った。

連載小説『爛熟』31

 やがて、雨を携えて覆い被さってくるであろう嵐。遠来にやや、と望むは閃光。そうだね、あの時も上空は迫り来る嵐を孕(はら)んでいたろうねえ。僕は何処までも地平の及ぶ限り続いているかのような野っ原の、いわば一迷い人、みたいなものだったろう。「随分、心細かった。僕はいまにも泣き出したいような気分に陥って・・・。随分、心細かったよ。随分、随分ね・・・・・・」 

 あれは一体、いつのこと、だったろうねえ。小学校の低学年、いや中学年、かなあ。まだ半ズボンでも穿(は)いていた頃のことさ。僕にもそんな、まあ、例えばほっぺたを真っ赤に染めている、みたいなさ、そういう時期もあったんだよ。あの頃、僕には同じクラスにね、かなり好きな子がいてね、その彼女の誕生日、そうだな、きっと何日も前から、学校の帰り道に寄り道してね、その女の子の為に、野っ原を探し回っていたんだよ。うん、約束したんだよね。その女の子の誕生日に、「きっと持っていればそれだけで幸せになるという四葉のクローバー」をあげると約束したんだよね。まあ、迷信さ。けれどあの時、僕は懸命でね、どうにかして四葉のクローバー、その贈り物を手中にしたくてね、うん、野や山をほんとに這いずり回ったね。だけどどうしても四葉のクローバーは見つからないんだ。クローバーの一群はそこかしこにあるっていうのにさ、だのにどうしても四葉のクローバー、だけが見つからない。子供の頃だからね、その内、泣きたくなってくるんだよ。どうしてもどう足掻(あが)いても、ハハハッ、欲しいものが得られないものだから。日暮れてくるだろう?、確か、雷か何かごろごろ音を発(た)てててねえ、終いには見つけられない自分が情けなくなってきて、どう、そういう心待ち、気持ちだねえ、自分でもどうしたらいいのか、口惜しいっていうかさ、やりきれなかったよね。「僕は彼女に約束したじゃあないか」そういう気持ちに陥ってしまってねえ、仕方なかった。ほんと、もういろんな場所を何日も何日も探し回ったんだよ。だけど得られなかったよね。
 そうして、その子の誕生日。僕は「御免ね」と言って、仕様が無い、素直に謝ったんだよ。御免ね。見つけられなかったよって。けど彼女は辛辣(しんらつ)だったなあ。うん、その子にそう、告げると彼女は、物凄い剣幕で怒り出してね、ひどく詰(なじ)られた。「約束したじゃない。四葉のクローバーをあげるって」「約束したのにひどいじゃない。嘘吐き!!ッ。」僕は俯いたっきり、なんの反論もしなかった。まあ、言い訳をしたく無かったというのかな、実際、いまだに想い出すのは、その時、詰られた時の心持ち、だね。。いまだにそういうことはしっかり覚えている、ものさ。「・・・見つけられなかった僕が悪い。約束を破った僕が悪い。嘘吐きと言われても仕方が無い。約束をしたのも約束を破ったのも、この僕だ。だからこの僕こそが悪い。」しょげたよ。大袈裟じゃなく、この身の終わり、みたいな気になったよ。泣きべそをかいて家(うち)へとぼとぼと帰っていったらさあ、あの時、その道すがら、僕は母さんに逢ったんだよ。まあ、大抵、母親なんて者はそんな優しい部分が有るのかもしれないけれどね、母さんは事情を、うん、上手くそっと僕から聞きだしてね、慰めてくれたよ・・・。「あんたは精一杯のことをしたんよ。そういう気持ちは大事にせな、あかんよ。いつかきっと判ってくれる。あんたはほんにいい子、や。」ハハハハッ。まるで気持ち悪い。マザコンだな。頭を撫でられる。頬をぎゅっと両手で摘(つ)ままれたり摩(さす)られたりとかさ。
 
 それでも、僕はその後(あと)も探し回った記憶が在る。挙句、見つけられたと言う想い出が浮かばない。きっと長い間、それからその子に口を聞いてもらえなかったんだよねえ。「あの頃、僕は想ったものさ。見つけられなかった僕が一番いけなかったんだって。」


 
 
 
 

連載小説『爛熟』30

  自死。一度目は服毒。二度目は静脈(じょうみゃく)断裂。未遂に終わった、だがかつての、詩人自らのこれら行為は主への冒涜、以外の何ものでもない。主は、自らの死をけっして自らに課してはいない、はずだ。奉仕の精神は生あるところにこそ輝きを生(う)む。死してはけっして煌(きらめ)いてはくれぬもの?、
 窮するとひとは澱む。留まる。動かなくなる。落ち込む。凹(へこ)む。詩人はそこから周囲の想いも及ばぬ行為にでて、その己自身を追い込んだに過ぎない。自業自得とは、必ず、そこに伏線が在する。詩人は他者に哂(わら)われて当然、だ。常人が思考すれば留まる言動をさもありなんと起こしたのだから、嘲笑われて当然、だ。馬鹿で間抜けな詩人さん。・・・だ、などと、詩人は何度、あの頃の我が身を省みて断罪、したことか。その想いの先が、自死的行為?、苦悩の心中で彼には、その生に対してそうすることでしかあがなう術を見いだせなかったというのだろうか。

 北陸路は、寒(かん)の霙(みぞれ)を呼んでいた。木(こ)の芽時(めどき)にも関わらず遠方では、あれは春雷(しゅんらい)という奴であろう、なにごとか雲の切れ間から稲妻らしきものが地上へと刺している。小さな箱の中。二両編成の、電車のガタガタと揺れる座席でまどろんでいた詩人は彼方にその閃光を見た。またたくまにまたよそよそと迫り来る過去の戦慄?、いや彼はそこにぽつねんと座っているだけではないか。
 更に電車は北へ北へと向かう。与えられた時間は、詩人の想うままに在(あ)り、その命を自身で縮めぬ限り、潤沢(じゅんたく)な、それは自在なる一里塚(いちりづか)、とも言えなくもない。求める場所は求める場所に在(あ)り、詩人が厭(あ)くことを知らなければきっと扉を開いて易々と泰然と迎えてくれることだろう。だが、その続きは誰にも解せない。
これまでへの静々と想い起こされる情景。ひとはそれらを追憶の彼方という引き出しにしまいこみ、忘れた振りをしているに過ぎない。忘れた振りをしなければ生きていけない、から。まどろむ詩人の傍らをよちよち歩きの坊やが通り過ぎて行く。詩人は、ふとその子を目に掠(かす)めながらそんな彼方を遮断しようと再び躍起になる?、よせやい、潤沢な時間はさも潤沢に詩人のその懐にある、と言ってるじゃあないか。歩んでいるのさ。何処(どこ)へ?過去へ?未来へ?明日へ?。振り返るばかりが能、じゃあないよ。
 よちよち歩きの子の後に、十歳ぐらいの子、だろうか、お兄さん風の子が何事か発しながら駆けていく。いまだ続く春雷のせいで、そうしてその子のように駆け寄るが如く迫り来た春雷のせいで、箱の中にはその稲光しか差し込まぬのだけれど、それらがまた詩人のまどろみをこともあろうに易々(やすやす)と誘発して可笑しな心持ち、にはなる。外はきっと嵐、なのさ。だのに詩人はその外(ほか)に居る。まだ三十路を重ねぬであろう母がふたりの子を諭すかのように身振り手振りで言葉を尽くしている。稲光の中にその三様がシルエットと化す。詩人にはその母の問いかけは聞き取れない。「あの時も確か、どんよりとした雲の間に間から閃光がほとばしって随分心細い想いを抱いたっけ・・・」泣きついた母の懐でしくしくと嗚咽した自分。詩人はその陰影にあの頃を見た?、あの頃、あの時がふいにこの時、詩人の脳裏に蘇ってきて彼は深くけれど安らげにその瞼を閉じたのである。

連載小説『爛熟』第二章13~24

  『爛熟』第二章 風友仁
『a mature 』/爛熟<RANJYUKU>・part2 an author;Tomohito Kaze
 
  13
 霙(みぞれ)が雹(ひょう)になり牡丹雪に変化(へんげ)するかのような神の悪戯が余りに過ぎた、冬の夜、詩人は懐手にした猫背のままでずっとうずくまっていたいほどの寒さの折り、ひとりの少女の 訪問を受けた。
 「いや、何、いま帰って来たばっかりなものだから・・・」
 父の病室から帰宅して間もなかった為、まだ室内には暖色の気配が漂ってはいなかった。詩人は急いで石油ファンヒ-ターのスイッチを押した。こういう訪問を詩人は、まま受けた。滅多にあることではないが、詩人の愛好者だと称する老若男女がこの土地に降りて来る。「私の詩を読んでほしい」という投稿者まがいの封書を送りつけてくる人間もいるが、実際に彼と会話を交わしてみたいと思考して尋ねて来る愛好者は、何がしかの憂いを秘めており、詩人も気持ちを無造作には投げ出せない。
 以前、「あなたの詩を読んで、死にたくなりました。」と真顔で余程の真摯な想いを、ひとりの同性から突きつけられて、どぎまぎしたことがあり、心持ち、恐さを感じるのが愛好者の類い、だ。
 この少女は長い髪を有していたが、薄手の淡い眼鏡をかけており、可憐な陰影を携えてはいなかった。
 電車でやって来た、と告げ、冬休みを利用して「生まれてから一番、膨(ふく)らんだ、夢にまで見た」詩人の彼に「一度でいいから逢いたかった」などと殊勝なことを、「漸く両親の許しをもらえたものですから」と、育ちの良い、けれどどこか含みの有る言葉を繋ぎ、それゆえにそのどこか伏目がちで暗い印象とはよほどかけ離れたかのような澄んだ声音が詩人の琴線を殊更に刺激、した。
 普段の、自身の声音よりも一オクタ-ブ、総じて高そうな喋り方、そうして言葉を発する時には必ずと言ってよいほど視線を上げ、じっとこちらを見据えてくる、そのときの眼差し。悪い感じでは無い。(けれど意思は強そうな娘、だな)と詩人は執着、した。
 「もう少しで暖かく、なる。何か、コーヒーでも飲むかい?」
 詩人は、寒そうに身体を小刻みに震わせながらも、幾分、かしこまった風の少女にそう言うと、つと立ち上がってキッチンへと歩んで行った。その後ろ背に、「大きなうちなんですねえ」という少女の感嘆まじりの呟きが。「いや、古いだけの家だがね」と苦笑を返してあげようか。薬缶に水を入れ、コンロに火を点けると、詩人は元居たソファーに腰掛けて、改めて少女と向き合ってみた。
 眼鏡越しだが、綺麗な目をしている。くっきりと縁取られたその二重瞼に若さが感じられて、彼は多少、向かい合うことに気押されを抱いた。
 「あの・・・先生は詩が好きですか?」
 唐突に、少女がそんな質問をきりだすものだから、詩人は更に気押され、た。
 「うん?・・・そうだね?・・・」
 どう、言うべきだろう。どうして、この少女はそんな問いをこの僕に投げかけてきたのだろう。彼は少しばかり思案して、少女の方を向き、どちらかと言えば自身に言い聞かせるかのようなゆっくりとした口調で、こう語り始めた。
 「詩は、勿論、好きさ。特に、詩を織る、という行為が好きでね。たとえば、日常、やっぱり人間をこう、長いことやってるとね、厭なことや、うん、まぁ、屈託の無い人生なんてないからね、そういう気持ちをあからさまに詩に書く、というか詩に託すということは無いのだけれど、そんな気持ちを自分なりの言葉と照らしながらって言うのかな、言葉を創造しながら、交じらわせながら、詩を織る、詩を編む、という行為は好き、だね。」

  14
 「詩を編む、という行為・・・?」
 少女は反復、した。
 「うん。何がしか生み出そうとする、行為。ほら、詩という空間はよく宇宙に喩えられる、だろ?精神世界の宇宙。この心の中の精神という宇宙をこれでもか、これでもか、これでもかって掘り下げてみていくと、自分なりに見つかる言葉がある。そういった言葉を、ひとつずつひとつずつあやすように書き込んでゆく。そういう行為が、僕は好きではあるのだけれど・・・」
 「そうすると、評論とかは、また別の行為、とかになっちゃうんですか?」
 詩人は耳をそばだてる。少女が詩人の言葉を瞬時に咀嚼、したからだ。
 「そう、だね。評論はまた詩とは違う世界の代物、だね。評論というのはひとを刺す、という言い方をする場合があって、どちらかと言えば他者的、第三者的な発想が必要になってくる。詩を織る、という行為はそれとは明らかに違う。もっと内包的なものさ。」
 少女は想いだすかのような顔をして、
 「・・・先生が『文聖時評』に書かれていることって詩を織るっていう行為とは、またほど遠いっていう、行為なんですか?」
 「・・・うん、全くほど遠いね(笑)。・・・けど、君は『文聖時評』に僕が書いているものも読んでくれているんだ?」
 『文聖時評』とは、いわば季刊誌のようなもので、同人誌風の呈を成す同胞の者達が小さな出版社から出版している小雑誌で、こんな思春期の女性が手にするような類いのものでは無いはずなのだが。
 少女は一際、声を高める。「はい、読んでます。けど、困るのは私の町の本屋さんって東京のくせに置いてなくて、わざわざ毎月発売日には、私、新宿まで買いにいくんですよ。」
 (毎号、予約でもすれば良いのに。)少女の微笑ましさに、そんな下卑た問い返しは、この際、隅に置いてしまおう、と詩人。 
 少女が、更に何かを言おうと想いを巡らしたとき、熱した薬缶の音がけたたましく響きだした。
 そうと察して、少女「 ・・・先生」
 「ああ、いけない」
 やおら、立ち上がった彼はソワァーの角に足を絡めて転びそうに、なる。後ろ手に髪を掻く詩人。「僕は案外、いつもこう、なんだ。」その嬌態にくすっと、笑う少女。だがすぐさま見てはいけなかったものを見てしまったかのように顔を竦(すく)め、じっと笑いを堪える。
 詩人は、コーヒ-メジャーへと湯を注ぐ。
 ぽたぽたと搾り落ちてくる水滴。
 この家の外では、さらさらと白雪が舞い散る。
 交錯する、ふたつの音色。
 ・・・・・・奏でている。いや、何かが奏で始めようとしているのか?。

  15
 「砂糖はいくつ入れる?」
 「えっ?・・・あっ・・・ふたつ入れてください」
 目の前に運ばれたカップに漂う湯気を見つめながら、少女はさもこの世でいまだ見せたことのないかのような満面の微笑(えみ)を湛えつつ、一口、飲み干す。
 「あの・・・これ」
 少女が傍らに置いて居た鞄の中から取り出したものは、大判の詩篇が綴られている商用の雑誌であった。この辺りは少女も皆がそう、であるように作者の前でそのような所作を起こしたかったとでも言えようか。
 「先生は、この雑誌に毎回・・・詩を一篇、載せられてますよね。私、この雑誌も毎月、買って読んでるんです。」
 有難う、と詩人は目線に気持ちを湛えると、少女から受け取って、中をぱらぱらと繰った。
 「・・・最近は暗いものばかりだね。ちょっと厭になる。」
 自身の作に溜息を吹きかけてみたくなる、これは性!?
 「もっと若い時分の頃のようなものが、本当は書きたいんだけれどね。鬱、というか自分のものはやっぱり読みたいとは想わないな。」
 それは、余りにも正直過ぎる、或いは物書きの言い訳に過ぎぬ、ものなのだろうか。
 どさっと遠くの方から、積もった白雪だろうか、何かが落ちる音がした。見合わせるふたり。時間が刻々とふたりを置き去りにする。
 柱時計が鳴った。音色は最早、その時計の音、だけである。
 「帰りは何時の電車、だったのかな?」
 「・・・・・・」
 少女は、答えない。初めて詩人の前で言葉を噤(つぐ)んでしまった。「寒いし・・・僕が駅まで送って行こう。」
 何がしかの想いを飲み込むように頷く、少女。
 「・・・お願いします。」
 かけたオーバーに身を包み込むように自家用車へと乗り込む、ふたり。白雪はさらさらと舞い落ちるのでは無く、深閑とその肌を射るのだ。車中、「今日は本当に、私なんかに・・・いろいろとほんとに有難うございました。」しおらしげに下を向いたままで。
 「いやいや、こちらこそ、何もお構いも出来なくて」
 「あの・・・先生。」
 「ん?・・・」少女を見返す詩人。
 「あの・・・今度は春休みにお邪魔してもいいですか?」
 「うん、いいよ。またご両親の了解をもらって来なさい。」
 「判りました」と小さく。「春休みに、だから、きっときっとまた来ますから、それまで先生、・・・・・・元気でいてください。」
 その少女の言葉の真意を少し計りかねながらも、彼は「・・・うん、元気でいるよ」
 駅舎は夕闇の只中にあった。寒村の町の駅舎だけに、ひとっこひとり居やしない。ホームへと続く路だけがぼんやりと灯篭まがいの電燈で浮かび上がっている。影と影が折り重なる。詩人は掲げた傘をもう半歩分、少女の方に近づけた。少女はそう、と知らずか、ただゆっくりとできるだけゆっくりと歩んでみたかった。構内に面した切符売り場に誰も居ないものだから詩人は声を、覗き込みながらかけた。駅員は来た。詩人を見咎めてああ、という顔をして丁寧にお辞儀をした。「東京まで。・・・あっ、いえ、東京の新宿まで」駅員は「ちょっと待ってておくれな・・・」と呟きながらガイドを繰った。体裁を整えると、駅員は少女にキップを渡しながら「ああ、ちょうど良かったわあ。その一番ホームにもうじき来るさかい。あっ、キップは切っといた」と仔細に指し示した。そうして乗り換えの駅を口頭で告げると、また詩人を一瞥して、頭を下げた。
 電車は程なくして駅舎へと滑り込んだ。少女もまた深くお辞儀をしたが、駅員のそれとは違い、やさしみの込められているかのような悲しみに耐えているかのような、綯交ぜ(ないまぜ)の色に染められた、それではあった。少女は振り返った。
 「あの・・・先生、また本当に春休みに来ますから・・・そのときまできっとお元気で。」
 あまりの笑顔、であった。
 詩人は、再び同じ言葉を発せられて苦笑したが、その言葉に込められた少女の想いの底に漸く気づいて、ひとりごちた。
 「・・・ああ、有難う。元気でいるよ。」
 少女の陰影を残したまま、駅舎のホームでしばしひとり佇みながら電車の去った方角を見つめていた詩人は、もう一度、その言葉を口の裡(うち)で反芻、した。
  ・・・・・・そのときまできっとお元気で。
 少し暖かいものが体内に蘇ってくるようで、あった。
 詩人は、震えていた。

  16
 父は、看護師の急を受け、その病室へと駆けつけた時、明らかな死人の相を呈していた。仰向け、であった。看護師が主治医の傍らで、その胸に懸命、両の手を押し当て、自然呼吸を促している。
 看護師はあらぬ叫び声を、あげる。「ほら、ほら、息子さんが来やはったよぉ」だが、父は蘇らない。固く、瞼は閉じられたままだ。僕は思わず、額に固く結んだ手を当てて祈らざるをえなかった。ああ、主よ。嗚呼嗚呼、神よ。
 主治医は、こう言った。
 「・・・はっきりと申し上げます。もう、蘇生は無理かもしれません。ご親族の方にご連絡を。」「・・・判りました。」
 僕は、そうとしか言えなかった。また別の看護師が現れた。その看護師は僕の古くからの知り合いで、その場に佇んできっと息を飲んで父の容態を見守っていたであろう、この僕を頷きながら促した。僕はお願いしますと呟くと、下の階へ階段を駆けた。公衆用の受話器を掲げ、内ポケットからアドレス帳を取り出すと、まず姉のダイヤル番号を回した。いいや、もうそのときのことなんて覚えちゃいないさ。姉は出ない。十八で東京へ行き、一度は一緒に異郷の街で暮らしていたこともある、姉。だが、姉は一度目は出なかったと想う。その旦那さんにダイヤルしようか。再び姉にかけた。留守電を入れ忘れた筈だ。今度は、姉の声を聞いた。「何、あんただったの。洗濯物を干していたものだから」姉は安穏と、まるでさも当たり前の日常風景のひとコマをきり返してきた。僕は、速やかに用件を述べた、無論、そんな筈も無く、幾度も姉に問い返されるかのようなうわすべりの言葉を発していた筈だ。姉は「判った。一番早い飛行機で来るわ」と僕を勇気づけると、受話器を置いた。
 母の危篤の際も、そう、だった。まるで現実のことでないかのような、感覚がこの時も己の心根に覆い被さってきた。普段から、詩の世界で物語を編んでばかりいるものだから、実際にこの自身に起こる出来事が、まるで現実感を伴わないのだ。怖ろしかった。そういう自身の感情の気配が、そういう想いに囚われた自身の起伏の間隙が、その隙をついて忍び込んでくる悪魔の囁きが、この身を挫きどん底に堕(お)としいれようとするかのようで全く怖ろしかった。僕は真摯にほんに想いを込めて、主に祈らねば、父がこの世のひとで無くなる。そんな逼迫感に襲われて仕方なかった。無垢に神仏に縋るより、ほかに何があろう、ことか。何物も恨むまい。何物も呪うまい。何物も辱(さげづ)むまい。何も考えない。何も語るまい。ただ願うは父の延命、のみ。何ごとも綴るまい。僕は欲しいものを得られずに、「ママ、ママ、わーん、あれ、買ってよお」とまごつく、ダダを捏(こ)ねる乳飲み子を優しくあやそうと図る、女性のようなたおやかさを用いて、僕を、そう、あやそうと努めたのだ。哀れ?、躍起になった。穢れてしまったこの僕を、あの時、大迎、いや本気で僕は、引きずり起そうと躍起になった筈さ。「さあ、哂うがいいよ、それが僕というものの本性、だ。」・・・そう、なら、どんなにか良いのだけれど。
 
  17
 物書きと睡眠薬の関係は、阿片に群がる売人のそれに似てけっして隔絶されない関係に在る。詩人は、一命こそ取り留めたが、自室でひとり、父のその瞬間(とき)に怯え、考えるまいと想っても、なかば心は落ち着けず、また常用の睡眠薬を飲んだ。姉は努めて明るい声で、「優ちゃん、ご飯、食べないと身体に毒よ 。」と慰みの言葉を被せた。  「死ぬものか」あの父が。ただ根拠の無い、自答(じとう)。さめざめしき問いかけ。いまここにこうしていてもいつ病院からの看護師の連絡が入る、ことか。人口呼吸器の規則的な韻律音。それに反応せぬ父の息使い。血圧計に付された脈拍線。ピピッ、ピピッ。一定の電子音が、詩人の眠りを妨げる。ふたりの子持ちである姉は、まるでその子を見つめているかのように目を細めて、到底、横たえていても寝てはいないであろう、暗い弟の自室のドアを、そっと閉めた。
 このような時、彼の詩文、その空間は粉々になった。自身を追い込み詩を編む行為と現実に振り回されほっと溜息をつく瞬間(とき)に発露した言葉は、また違うものだったから。少なくとも、彼は現実にしっかと屹立していられるほどの強靭な精神は持ち合わせていなかった。つまり、今だこの詩人は餓鬼、だということか?、
 寒空を見上げ、かけたマフラーに首を埋めてブルブルと震えながらも星降る空の、その名をひとつづつ確かめていく、暗唱するかのような少年の幼い感情のように、彼の精神もまたいまだに、何物かに支配されていた。
 詩人はやつれ、倒れてしまった。姉が帰郷していた為にすぐさま、救急車で病院へと運ばれた。それがなんの救い?、彼が祈りを捧げ、もし、もしも父が持ちこたえるならば、この身を我が身をその御霊に預けても良い、などとあらぬ殊勝な心持ちを詩人が抱いた、それはその夜の出来事であった。

  18
 妖しく光る切先。鋭利な刃物がそう、と感じられたのは頭上から照射するランプの灯りが消えかかっていたせい、だけではないのだろう。その刃物を手にしていた者が、動揺を抑えきれずに微かに震えていたから。「さあ、どうした?、怖気づいたか?」下卑(げび)た哂(わら)いにその声はよく、映える。続けて女の金切り声。「止めて!!。ここは舞台じゃないのよ!!。」舞台じゃない?舞台じゃない?・・・・・。そのふたりの科白が覆い被さるかのようにリフレインになって、白狐(びゃっこ)する。全ては、いまや己の意思、ひとつ。(僕は・・・僕は・・・僕を刺すのだ。)
 水を打ったかのような静けさの最中、観衆は舞台上の、ひとりのうら若き青年のそれからを凝視、している。舞台?舞台?舞台???。
 いや、明らかにその青年はあの詩人の相、だ。まだ横顔に幼さの残る、だが見紛(まが)うことはない、あの詩人、美咲優治、だ。優治が二十三・四五の頃、だろうか。何故、彼が舞台のステージに?、・・・・・・舞台?
 いつの間にか暗転し、そこはどこか茂みのある森の中?、いや違う違う、違う。ある一室の黴(かび)臭い側壁を背にする居所。それにしても怪しむべきは、何故、優治はその片方の手にナイフ、刃物を握っているのだろう。それもその切先は優治自身に向けられているのだ。
 優治はどういう、心持ちなのであろうか。「あの時、固く握り締めたサバイバルナイフの柄がまるでゴム毬(まり)のそれに似て、あまりにも柔らか過ぎるものだから、ひどく可笑(おか)しくてねえ」そんなことを、たとえよしんば後でさえ言える技量の奴でないことくらい・・・。
 下卑た哂いと金切り声が騒乱の音楽と共に、突然、止んだかと想った瞬間、優治はそのナイフを自身の腹に向かって突き刺した。以外、ではなく、突き刺さった際の音よりも、突き刺そうと動かした優治の上着の袖がその、太股に触れ合った摩擦音の方をより大きく響かせた。
 一瞬、間を置いて激痛が走った。「うぐぐぐぐぅウググググゥ」
 あはは、文章として並べてみるとなんと軽い・・・
 痛みが言葉を凌駕、していた。ひとつがふたつに見える。ははは、可笑しいよ可笑しいよ。起とうとした。それでも起とうとした。だが足が縺(もつ)れてくず折れた。金切り声の女が、血相を変えて、優治のその両肩を懸命に抱き抱(かか)えようとした。「なんでなんでなんでこんなこと?」
 ・・・なんで、なんでって?。決まってるじゃないか、己の為さ。無論、また立ち上がろうとして地面に突っ伏した優治にそんな覚醒の想い、など無い。

  19
 現世と夢の狭間。隔絶している感はあった。あったが、愕然とその残像をしばし病室の、ベッドの上で弄(まさぐ)るように追いながら、僕はまたあの情景を夢に見たのだなと腑に落ちた。びっしょりと汗で背中が濡れており、五体がこうも重いのは何故だろう。魘(うな)されたのか。父の病院では無い、ようだ。僕はどこに居るのか。眼前にかけられたカーテン越しに、どんよりと翳った雲が行きつ戻りつ、している。雲が割れている?、まだ、眩暈があった。顔を動かす度に、ぐらぐらと視界が揺れた。・・・・父さん。そうだ、と僕がいま、父の置かれている事態に想いが至ったとき、見知らぬ看護師が、その部屋に入ってきた。「意識が戻られはったみたいね」覗き込んで、その看護師はにやっと笑った。「いましがた、お姉さんから電話もらったんやけど、お父さんの方は一命を取り留めはったみたいで、心配はいらんさかいって」弟が、意識が戻ったら伝えておいてほしいとの遣り取りを、その看護師は手早く告げた。僕はまだ軽い眩暈の最中にあって、事情をよく飲み込んではいないと感じてか、看護師は再び、同じ意味の言葉を今度はあやすように繰り返してきた。「・・・判りました。すみません。」
 とは、いってもやはり気にかかる。姉に連絡を取りたい。だが、動こうとして五指に力を預けた時、長い点滴の管の先がその左腕に差し込まれていることに、その時漸く気づいて一瞬、僕は飛び上がった。・・・・・・なんてざまだ、僕は倒れたのか。ふらふらと意識が定まらぬから、僕は僕が僕で無い気がした。点滴台に掲げられた容器の減り具合からもう暫くは動けまい、ということか。僕はそんなことを算段、して自分をしっかと落ち着かせようとした。
 いまこそ、傍(かたわら)に居てやらねばならない僕が、ここに居る。姉は、そこに居る。だがいまの父には僕も必要なのだと感じた。深呼吸してみた(筈だ)。点滴が終わると、僕は看護師を呼んで、「ひとりで歩けるから」とせがみ、看護師詰所の脇の、据付の電話機から、父の病院へとダイヤルを回した。姉は果たして、そこに居た。「もう、親子して私に面倒かけるんだから」と姉は受話器の向こうで笑わせた。その喋り方からもいまだ父が安泰、なのだということが伝わってきて、ほっと息を飲んだ。だが悲しいかな、自身の病室に戻ろうとする最中でも、まだ軽い眩暈が続いており、それが僕に僕の脆弱(ぜいじゃく)さを想わせて一際、あらぬことを畏怖させてしまうのだった。

  20
 姉や叔父達は、今後の「推移を見守ろう」ということで、後事を僕に託して想い想いの場所へと帰っていった。皆、よるべあろうか、けれど確約たる生活が存し、明日、生きる為の手立ての為に帰っていかなければならない。姉は、その最後まで残っていたが、繰言のように「あなたが心配だわ。」などと僕にしきりに言うものだから、「大丈夫だよ。」と僕も散々繰り返して、その矛先をなんとか逃れようとした。先年、あの父が建ててくれた家にまたひとりっきりになった。
 僕も喰う為に書かねばならぬ。『文聖時評』の次々号執筆依頼が、メールで届いていた。僕はワ-ドを開け、此の頃の心境を僕なりの思惟的な感覚で包み詩文を添え、書き込んだ。訂正し、メールにそのファイルを添付して送った。十代の時分、一枚一枚を清書してひどく時間を削がれていた頃を想い起こせば、いまや隔世の感はある。大抵の遣り取りはもはやメールで済ませるし、重要な案件を時に電話で遣り取りするぐらいで、あとは細々、この日常の煩瑣な出来事もメールで終わらせる。文章を普段、編み、そのことを生り合い(なりあい)としている者が、もうほとんど手紙なるものを書かないのだ。人生の哀感を詩文として切りうる者自身が、もはや自身の筆跡を忘れようとしている。
 父は、僕がその手を握り、祈る度ごとでもこの手を握り返してはこなかった。「父さん」「父さん」「父さん」声をかける。時にその目をぎょろっと剥き、何かを言いたそうに身体を小刻みに震わせた。
 「父さん、頑張れ、なぁ、頑張れ、優治だぞ、優治だよ。ここに居るよ。」僕は人の子としてそんなことしか言えぬ。呟けぬ。座り込んでへたり込んで祈らずにはをれなかった。病室の窓辺から望む如月の空は、寒雪の昨夜を一変に払拭させたかのように、瑞々しくも晴れ、澄み渡っていた。僕は父のその手を握り、祈りを捧げたあとそれらを見いだしながら、「なんの事柄も関係して」いないかのような、「なんの拘りも備わって」いないかのような、「なんの望みも砕いてしまう」かのような、そんなただ在る青空が、この心から憎々しく想えた。ただそこには青空が在る、ばかりなのだ。僕の、そうして父の執念の外(ほか)にそれは、在る。

  21
 魔を射る・・・僕は口惜しさでいっぺんにこの血が滾(たぎ)るような想いがした。知人の小説家から告げられて、在る文芸雑誌の批評家同士の対談録を読んだところ、僕の詩文に対する言及がなされており、「此の頃の彼は、なんだか身辺穏やか、じゃあないというか、澱(よど)みがフラフラしていて良いものを編んでないね」というくだりに及んで、のこと。僕は歯がゆさと怒りで、僕の中の「悪魔という名の魔を射抜かれた」想いがして口惜しさで激怒しかけた。かの川端と太宰の論争じゃあ、あるまいし。まだこんなことを言う奴が居るのか。すぐさまこの批評家に抗議してやろうかとも考えたが、詮無いことと自分を努めて努めて諌(いさ)めつつ、この懐で「ええい、処理してしまえ」と断罪、した。
 恒にこの腹中、葛藤はある。故に脆い、のだ。ひとの意見が気にかかる。物書きなんてこの程度の類いに過ぎない。まるで日中、家宅を覗かれているようなものさ。だが、それがこの心を売る作家の宿命ともいうやつなのだろうから、本当は一々、怒(いか)っても仕方無いことなのではあろうけれど・・・、宿業(しゅくぎょう)だ。宿業さ。これからもこの宿業とやんわりゆんわり付き合ってゆかねばならぬのかと想うと、もう、もう、僕はこの生に厭(あ)いてしまう。厭いてくる。
 ネットを開いた。メールを確認した。「駅まで送ってくださって、その節はほんとうに有難うございました。」その長い件名に、おやっと心が弾けてすぐさま本文を紐解いて、ほっと溜息を漏らした。あの少女からのメ-ルであった。あの時、せがまれてアドレスを教えたが、ついぞ初めての少女からの交信であった。僕は、無声の只中に小鳥が小さく囀(さえず)っているかのような慰みをそこに感じてしまい、この己の柔な精神を糾(ただ)す前に、ひとり物思いに耽(ふけ)ってしまった。「もうすぐ春休みです。」そこからの一文が僕の眼前に拡がった時、僕は僕の書いたものなどよりか一層倍温かみのあるそのひとことふたことみことに、文章の襞(ひだ)を見る、想いがして困惑、した。「いや、何、僕なんかより立派に良いものを、・・・」僕は穢(けが)れていた。僕は取り返しのつかない穢れの道程を今日まで繰言と煩瑣な日常という、どこか裸足で出歩くかのような逼迫感に、恒に追われているような感覚の中で生きてきた。そんな少女の文章に少し、この瞼に熱くなるものを湛えてもよいではないかと、僕は僕をまた慰めてみた。それがたとえ間違っている所作だとしても、僕にはいまや顧みる余裕、など微塵(みじん)も無い。

  22
 己は業が深い。詩人は瞬(まばた)きもせず自身に、そう浴びせかけていた。かつて自らの意思で二度ほど死を選んだ。
 詩人の姉は、世に詩人として知られた、その弟への風聞を畏(おそ)れてか、いまだ開封されずじまいではあるが、ある手記を綴っていた。弟が二度目の自死を選んだ直後の出来事で、その手記の存在を弟である詩人は、よもや知るよしもないであろうけれど、これらひとつの事象においても、いかに彼が幼い時分から、その一家に愛されて、いとおしまれて育ってきたことか、
 例証ごとではあるが、あの父もまる五年余り以前のその日、脳内出血で倒れ、のち、初めてその眼前に我が息子の姿を認めた明くる日のこと、再び東京へと一旦帰って行こうとする息子の見送りの為に、「わざわざ、窓辺に立ち寄って片手まで上げ」その労に報いろうとした。
 父は、父はこの僕に強く生きよと、まだ発病して間もない身体を懸命に起してまでも、その意思を示したに相違、無かった。
 灯はこうこうと照っていた。春は遠い。とつとつと前後に揺れながら落ちる細(ほそ)め雪は止んでいた。けれど芯から寒い。息吹を、詩人の眼前で躍らせる、野生の動物達の存在をそこかしこに知るには、まだ季節が織り重ならない。だがどこからか吼えてきたその声音に詩人は、何故か身震いした。ズドンと次に銃声?、そんな馬鹿な?、狩猟期にはまだほど遠いはずだ。幻聴か?。寒村のとある風景は、石油ファンヒーターの赤々と燃える炎によく映(は)えた。その炎の揺曳(ようえい)に意識は深閑とした雪の只中に堕ちゆく。寒い。寒すぎる。この年ほどの大雪(たいせつ)もとんと記憶には無い。
 己の業は深い。どこかで、この業の深さを断ち切らねばならぬ。己は罪が深い。どこかで、この罪の深さを断たねばならぬ。何ゆえに。この生の為に。生き継(つ)いだ生の為に。逃げてばっかりだった。どこか自死することで安堵の境地を弄(まさぐ)れるのだと、自身に甘言(かんげん)を吹き込んできた。きた?、いやいや、僕はつらいのさ、疲れるのさ、守る術なぞ要らぬのだから。そうさ、ここまで独りで生きてきたじゃあないか。(またまた振り出し?)。その答えとは一体、この先の答え、なんて一体、この己に何が見いだせようと言うのか。判らない。判らない。判らず、じまいか。
 詩人が、身じろぎもせず、居間で暖気を前にその記憶を手繰ろうとしていた矢先、けたたましく着信音は鳴り始めた。詩人は、ハッとした。そうしてすぐさま了解、した。その電話の内容が良からぬ父のことであろうと、詩人は慄然(りつぜん)と自身の予感を認めていた。

  23
 父は逝った。その眉間に最早、澱みなど存しない。
 父は死した。その傀儡に最早、主など存しない。
  
 看護師は手慣れている風で、「先ほど、六時二十一分、お父さんは亡くなられました。直ぐ、病院に来てもらえますか。」詩人の心根をすんなりと通過していくかのような、抑揚の無い、整然とした声音。つい一時間程前、彼は父の病室を辞したばかりだったのだが、呼吸器の韻律音のみに支配されていた病室では、その後の事態急変に、そうさほど時間を要しなかったということか。人々が夕御飯を喰らう最中、詩人は再び、自家用車を駆った。シャカシャカと左右に擦(す)れるワイパーの濁音(だくおん)と、それらへと吹き付けてくる白雪の粒が普段よりも大きく感じられた。行き交う車、など無い。
 駐車場に降り立つと、詩人は足早に二階の看護師詰所に寄った。幾人かの看護師が直ぐ彼を見咎めて、「待ち望んでいたかのように」父の病室へと先導、した。詩人の後ろ背で馴染みの看護師の「来られました。」という、父の最期を看取ったらしい医師への投げかけの言葉が聞こえてきた。
 詩人は、部屋へと入った。白布(はくふ)が、その面影を覆っていた。後(あと)から入って来た医師が「穏やかな最後でした。」と静かに呟いた。年長の看護師が、「ほんに、全然苦しまれるようなところも、無かったんよ。ほんに穏やかなもんやった。」と追従の言葉を重ねた。
 詩人は、父の枕辺に歩み寄って、その白布をとった。死化粧に染められているのか、まだ暖かげなその頬が綺麗な肌色を呈していた。一瞬間、詩人の相好が愕然と崩折れたように感じたが・・・。「・・・有難うございました。大変、お世話になりました。」医師らの方を向いて、詩人は深々とお辞儀をした。暗闇にあって、父の息使い、のみが聞き取れない。詩人が父に掛けて置いた、詩人の叔母が編んでくれた、詩人の父の名が付されていた、羽毛布団が部屋の隅にきちんと畳まれて置かれていた。そのことが、何よりもついぞ父がこの世情のひとで無くなったことを暗示しているかのようでいたたまれなかった。死装束(しにしょうぞく)に包まれた父の姿が、静謐(せいひつ)にひとつの魂の終わりを告げていた。詩人は懸命に耐えた。耐えた。それまでの人生。詩人のありとあらゆる我が儘(まま)を、「おまえの生きたいように生きれば良い」というまるで決め台詞でもあるかのように、二言目には発してくれた父。彼の胸中に数々の面影が瞬く間に去来する。
 
 ・・・・・・父さん。

 詩人は、誰憚(はばか)る事も無く、滂沱(ぼうだ)の泪を流した。四十にもなろうかという男が、か?、呆れて言葉も出てきやしない。言葉?、この状況下で言葉なんて要るのかい?。いつも自分に都合のいい言葉しか知らぬ誰かさんッ!!。
 溢れ出る、その滴(しずく)は拭う暇(いとま)も無い程に。

  24
 母の時も、そうであった。父の時も、そうであった。その男は、その最後の時を向かえ、号泣した。両膝ついて泪、した。そういう、弱い男であった。情けない、人間であった。普通ならば、ひとはそういう姿を他者に見咎められたくなく、それこそ人知れず泣く、ものだ。「構うものか」そう、男は想ったかどうか。男には、その時、他者など、存しえなかったとしか言いようが無い。誠、か弱き男であった。そんな男は、ひとに案外、冷たい?非情なところがある?口煩(うるさ)い?傲慢な、実は奴か? 、その泪は拭うには 合間が無い。乾かぬ内にまた、泪は溢れ出た。
 終わりを示唆、していた。何の終わりを。死者に手向けられるべき荘厳の花束群が、そういった意識を男に投げかけてきた。残された者はただひとり。この寒村に男は、ゆえ、ひとり取り残されたのである。
 父のこの世情からの絶句を受け、通夜には続々と慰問の客が訪れ始めていた。男の父は、地方の建立ながら大学の講師まで勤めた文人であり、その晩年は国文学者として中央にもよく知られたひとであったから、悲しみをその頬に湛えた人々の列は、ひっきりなしで男もその応対に追われて心休まる時が無かった。本来ならば、こういう時こそ、ひとりを噛みしめてもいたいものさ、それは偽らざる想いではあったが、父の生前の親交にはなんら非難は向けられない。男は勤めた。儀式は寒村の通例に委ねた。三大新聞にも片隅ながら、父の訃報が載せられていた。「詩人・美咲優治の父」という文面も踊る。在る著名なる文学者が、父への哀悼記事を寄せていた。それらをついぞ、その息子は読む暇(いとま)を無くしてしまうわけだが、ひっそり閑としていた古里がいまや、こうこうと吊り下げられ照らされたランプの灯明かりと、ほんのりと燈る灯篭に浮かびあがったかのようで泰然としてはいられない。市井の者達が父の為に奔走、している。暮れてもまだ庭を払う者。遺族らの為におにぎりをこさえる者。この一帯、部落挙げて死者を弔う。詩人から方々の書類を受け、やれ役場だのやれ火葬場だのやれ新聞社への取次ぎだのやれ葬式に向けての予定だの、人々は男の父の、生前の異業を称え、闊歩する。
 姉は、極めて他人を鼓舞するかのようなけらけらとした笑いと共に、慰問の客をもてなす。ぐったりとして男が奥に引き篭(こ)もると、その姉の快活な声がまたたく間に聞こえてくる。どこか幼き頃から、伏し目がちで想いつめるかのようなところのあった男とは明らかに違う、その姉の語り節。そんな姉の達者な笑いが聞こえてくれば、その弟も奥に引き篭もってばかりもいられない。また応対に姉弟並んで、その双頭を下げる、この繰り返し。奥の間は、父が頑強な頃、姿勢を糾し愛好していた書斎。そこにあらぬことか、その父の息子はソファーベッドを持ち込んでいつの頃からだろうか、眠る癖がついた。周り、四方八方は書物の山、山、山だ。書物特有の匂いと、どこかしか生前の父の匂いが被さる。心根が、しんみりとなる。濡れる。落ち着く。安穏になる。なにがしか愛(いと)おしき匂いだ。それらの醸し出す芳醇な空気が、彼のここちを摩(さす)る。幼い頃からの、男の、そこは言わば聖地、だった。つい惰眠が襲う。一瞬間も置かず、あの姉の、男から鑑みれば嬌態とも呪うべき笑い声が響き渡って来る。その度に男は腰を上げた。父への最後の奉仕、だ。男は物憂(ものう)げな感情をしっかと起して大広間にそそくさと歩んでいった。


 

 
 

連載小説『爛熟』第一章1~12

  『爛熟』第一章 風友仁
『a mature 』/爛熟<RANJYUKU>・part1 an author;Tomohito Kaze
 
  1
 その女は、僕に「愛をおくれよ」と言った。どこかで聞いたかのようなその言い回しに、ちょっと可笑(おか)しみが漂っている。にやけているのではない。不確かな真顔、でもない。これはどうしたものかというような、憔悴(しょうすい)しきった、やはり顔を繕(つくろ)っている、はずだろう、なのに僕は弱った。心底、困った。腹中(ふくちゅう)、辟易(へきえき)してしまった。惑った。つまらぬことに片足をもがれるぞ、そんな想いまでして背筋がぞくりと這い上がった。
 僕はただ一個の詩人でしかあらず、そんな二、三度、乳房をまさぐったくらいの女に、どうという感慨もなく、だけれど煩瑣な日常において、苦しまなければならぬ人種の人間はやはり彼女のような立場の人間、なのであろうし、その女はただ、そういう主義、主張を強弁したとしてもなんら批判されうる対象でもなかろうと、どうしたものか、僕の平常、僕が僕自身に抱く一番優柔不断な心持ちが起こって、その女を清く正しく助けることにした。
 とにかく抱いてやれば良い、のだ。それこそが美しい。それこそが、この女

連載小説『爛熟』29

  誉れ高き主よ、我の、この胸にとまれ。教会の最頂部に設けられている、その大鐘が勢いよく振幅を起(た)てれば一帯に響き渡る、それらはひとの悲しき性を癒す一定の韻律、になる。そこにパイプオルガンの伴奏と共に合唱隊の調べが重なり、辺りは啓蒙の民の敬虔なる祈りで満たされる。はずだ、はずだ、はずだ。はず、さ。
 詩人は、どこへ来たか。実父の死を受け、寒村にひとり取り残された詩人は、果たしてどういう想いでそこへ現れたのか。幾人かの編集人に、「想うことがあるから」と書き留めた詩文やれ詩評文やれ一纏(ひとまと)めにして、メールで送っておき、旅にさっさと出た。これまでも慈善団体やれ講演やれと父の介護が気忙(ぜわ)しく日帰りがほとんどの旅、みたいな寄る辺無き行脚は行っていたが、古里を離れ、既に八日、彼は、あの青春の蹉跌(さてつ)を噛み締めるかのように、その二十代、若き頃の馴染みの場所を訪れては想い、訪れては煩(わずら)い、感慨を繰り返していた。
 あれから、もう何年が経ったことか。青山の、鬱蒼(うっそう)とした森の、いや晴れやかな木漏れ日に照射する、きらきらと眩しい、伸びた枝葉がゆっくりとしなる、照り返しがその眼(まなこ)を抉(えぐ)る、側壁に無論、反照(はんしょう)している、それら太陽の微笑が、自然の万物が、健やかげに謳歌するかのような、そこへと翳した手のぬくもりが、肌のぬくもりが、あきらかにつるりとしており、まさに「初々しかった、のだ」と呟いた、あのうららかで、艶(つや)美しかれ初夏。それから、もう、十五年?、六年、十七、八年?、再び詩人はその礼拝堂のミサに、姿を現したのであった。詩人の最愛の異性、糸田怜子(いとだれいこ)はイエス・キリストにその想いを託す、信者であった。彼女はあの頃、揺れる心情のまま、けれど安息日には出来うる限り祈りを捧げにきた。小劇団の舞台女優。スポットライトを浴びた彼女は神々しく、いつしか引き込まれるように詩人も洗礼を享(う)けた。
 祈りとは懺悔(ざんげ)である。この汚らわしき欲望を満たす為に蔓延(はびこ)ってしまった、或いは生まれながらにして既にその欲望の種として、この世に生を受けた者、皆、その全ての穢(けが)れを、洗い流そうとする懸命なる儀式である。いやいや、それらを人間の本能と見据え、ひっくるめて許容する、大いなる魂を培おうとする、神聖なる儀式である。
 なのに、随分長い間、そこにひざまずかなかった詩人には、主のご宣託はあまりにも過酷であった?・・・・・・パイプオルガンの音(ね)と合唱隊の響音(きょうおん)。めまぐるしく交錯し、やがてその音は濁音となり、嬌声音となり、狂った死人が群れをなし叫び狂うかのような呻(うめ)きとなって、詩人の嚢中(のうちゅう)を掻(か)き乱した。あああ、やめてくれ、うるさい、割れそうだ、頭が・・・苦しい、いやだ、僕は死にたくない、僕は悪くない・・・僕は・・・僕は。
 詩人はそそとした静音(せいおん)の響きの最中、見上げた後ろ背に掲げられていたイエス・キリストの十字架に処せられた石像を後に、教会を出た。五十歩百歩と歩んでいく。ゆっくりゆっくり歩んでいく。往来に出た。そこで楽曲の舞いは潰(つい)えた。ひっきりなしの車の波。詩人の脇を通り過ぎる彼、彼女らはみんなげらげらと笑いあいながら、さも愉しげに自身の目的地に向かって闊歩(かっぽ)しているではないか。

 ・・・・・・ほんの一瞬、間だったね。僕も君らとおんなじ人間さ。

連載小説『爛熟』28

 ネットカヘェへと勢いこんで、立てた自転車が転ぶさま。苦笑いしてもう一度自転車を立てるさま。少女には予感があった。入るなりすぐさまネットへと繋(つな)ぐ。『〇〇慈善事業評議会』・・・そこに求める詩人は存していた。「〇〇県〇〇群〇〇村」在住。ペーストし、そのまま検索してみる。「〇〇村役場」連絡先電話番号・・・。メモ書きし、一旦外へとまた駆ける。ポケットをまさぐるその手には携帯電話。番号をひとつひとつ丁寧に押していくさま。もしやパソコン据付のダイヤルフォンでは人目を憚った?もしやネットカヘェ、ロビーの電話BOXではまだ少女の執着が躊躇(ためら)われた?。村役場の、気の善(よ)さを会話に漂わす青年が応対してくれた。「あー、はいはい、そうですか?直接ね。良(い)いんとちゃいます?・・・先生の電話番号は、と。・・・」少女は、この時の胸の高鳴りを運命(さだめ)と後日、空(くう)を心に感じつつ称した。振り返れば、そこから少女は詩人に連絡をし、約束を取り付けたのだが、自身なりに「どう、したものか」と想わんばかりのその取り乱しようはいささか短兵急(たんぺいきゅう)な気もしたのだろうけれど、「可笑(おか)しなことをした」という感覚は全く無く、そこがこの少女の微笑ましきところでもあった、ろう。「すみません。あの・・・あの・・・一度そちらにお邪魔してもよろしいでしょうか?」「いや構いませんよ。あなたのご都合のよろしいときに来られれば良い、でしょう。」詩人は、出遅れて留守電に変わった際の少女のなんとも可愛らしき話しぶりに、その真面目そうな語り口に、そうしてメッセージが終わらぬ内に途中で切れてしまったご愛嬌振りに、心持ちが和らぐ想いが起こり、翻ってつい電話に出なかった粗相(そそう)を鑑(かんが)みつつ、再びかかってきたその少女とおぼしき着信音に今度はしっかと受話器を上げたのだった。
 少女は、やがて詩人を前にした。じっと見つめてみた。スラックスにセーター。どこにでも居そうな佇まい。だがその顔だけは揺れている。少女がときめきを肌身離さず、携えている、からだ。詩人は少女に優しかった。だがそれも誰にでも備わっている気配?、否、少女は知っていたのである。その時、既に。何を?、詩人の胸中を。それは土足でずかずかと入り込んでゆける物?いやいや、詩人の綾織る詩文を詩人の過ぎ行くときをさも自身のときであるかのように愛でる真摯(しんし)なる慕情(ぼじょう)を。少女は求めた。詩人の哀感を、哀切を。慾(よく)した。見定めようと計った。それは少女が幼き頃から有していた観念、こころ持ち。少女は既にこの時、嗅(か)ぎわけていたのである。詩人の憂憤を。いつぞやか途切れてしまいそうな、震撼(しんかん)と漂わすその気配を。
 少女は、幼い頃から詩情の世界に溶け込むことを、さも自身の生業(なりわい)であるかのように好んで生きてきた。詩人は機知を持ってそのことを本能で感じとった、はずだ。彼は、慈善事業団体との関わり合いなどといった世情の煩瑣な細々を、少女とのひとときでは一辺たりとも語らなかった。詩人は少女を崇(あが)めた、のだ。自身よりも、その半分にも満たない年頃の少女を。知る人ぞ知る、高名な詩人が少女を崇めた、のだ。「少女は僕とおんなじ棲家(すみか)に潜(ひそ)む住人、だ。」詩人は、そう易々(やすやす)と語っている。

Appendix

Literature sight-seeing『風、早暁記。』

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introduction

風友仁(かぜともひと)

Author:風友仁(かぜともひと)
 
 沖に出たらば暗いでせう、
 櫂から滴垂る水の音は
 昵懇しいものに聞こえませう、
 ――あなたの言葉の杜切れ間を。

 月は聴き耳立てるでせう、
 すこしは降りても来るでせう、
 われら接唇する時に
 月は頭上にあるでせう。

 あなたはなほも、語るでせう、
 よしないことや拗言や、
 洩らさず私は聴くでせう、
 ――けれど漕ぐ手はやめないで。
   中原中也『湖上』拠り 
*『爛熟』この書を我が畏敬のひとり、中原中也の御霊に捧ぐ。


*an information desk *
皆々様の厚きご支持、心より傷み入ります。有難うございます。

*新たなる風の舞、ここに興つ。*
*謹告*当オンライン小説サイトでは、大変申し訳ございませぬが一切のコメント・トラックバック等は諸事情に拠り、お断りさせてもらっております。どうぞご了承くださいませ。*尚、この小説に関する全ての帰属権並びに著作権は筆者、風友仁にございます。個人で愉しむ以外のコピー、それらを商用の配布等に用いたりする行為は法律で禁じられておりますので是非、お止めくださいませ。現在公開中のものにつきましては、何の予告もなく、加筆、訂正、語彙、言い回しの変更、削除等行われる場合がございますが、それらについての更新情報等は行っておりませんのであらかじめご了承下さいませ。
*今後とも『爛熟』並びに風友仁の綾織る世界観にどうぞご支持、ご声援のほどを、宜しくお願い致します。
 
  2006・1・15 心を込めて。
         風友仁

*連載小説『爛熟』に就きまして*
 この物語は、空想の物語であり、一部事実を基に脚色なされておりますが、登場する人物及び団体の名称等、ある特定の人物及び団体等を示唆、揶揄、誹謗、中傷する類いのものではありません。飽くまでも架空の物語としてお読みくださいませ。またもしや名称、団体名等が同じでも飽くまでも架空の物語でありますのでその点、どうぞお知りおき下さいませ。皆様のご理解の程、何卒宜しくお願い致します。著者・風友仁


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